解説 木曽義仲

義仲騎馬像      富山県小矢部市埴生   埴生八幡の境内に建つ。

 

 

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やさしい木曽義仲

 もご覧ください。

 

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義仲は武蔵嵐山で生まれたか。
義仲は信州木曽で育ったか。
義仲は暴れん坊将軍だったか。
義仲や巴は実在したか。
『平家物語』や伝説に基づく通説は正しいのか
疑問に丁寧に答えます。

 

 

解説 木曽義仲

 

平成29年12月30日

 

発売中

『解説・木曽義仲

 

はじめに

 

 木曽義仲は「朝日将軍」または「将軍」と呼ばれている。「朝日将軍」または「旭将軍」は『平家物語』によると後白河法皇が「朝日の将軍」と命名した木曽義仲のニックネームである。もちろん朝日将軍や旭将軍などは正式な官職ではない。
 正式な官職としては「征夷(せいい)大将軍」に任命されたというのが従来の通説であった。これは鎌倉政権の正式記録とされる『吾妻鏡(あずまかがみ)』にも記載されているので事実とされてきた。
 しかし最近の研究によると「征東(せいとう)大将軍」に任命されたのが正しいようである。任命されて数日後、世に広まる前に最期を迎えた。参照 『旭将軍・木曽義仲・軍団崩壊』
 木曽義仲や木曽義仲軍は礼儀知らずの田舎者、乱暴者などマイナスのイメージがあるが、これは『平家物語』や、これを引用した歴史小説の影響が大きい。木曽義仲を主人公とする小説や漫画ですら、礼儀知らずの田舎者、乱暴者を強調しているものがある。もちろんそんな礼儀知らずの乱暴者では無い
 『平家物語』の「木曽最期」の場面は中学や高校の国語の教材となる事がある。歴史に詳しく無い教師が、義仲軍は乱暴なので征伐されたという説明をする。木曽義仲や木曽軍は信濃出ではあるが、礼儀知らずではなく乱暴者でもない。
 木曽義仲を語るものとしては『平家物語』があるが、これは現代の歴史小説のようなもので、真偽は不明である。他の史料との比較検討が必要である。鎌倉政権の正式記録とされる『吾妻鏡』にも一部記述はあるが、義仲の大活躍した寿永二年の記録が欠如している。京の公家の日記が数種類残っているが伝聞が多く、若干の疑問が残る。地方の伝説は真偽不明のものが多い。

 

木曽義仲挙兵の地

 

 (長野県上田市・御嶽堂) 

 

 近くに依田城、義仲館跡などがある。

山吹姫の墓

 (長野県下条村睦沢) 

 

 山吹姫の墓という。

 

 

手塚氏隠れ里

 

 (長野県上田市須川) 

 

 手塚氏の子孫が住むという。

義仲腰掛岩

 

 (岐阜県高山市高根) 

 

 義仲が腰掛た岩という。

 

岩華(いわはな)観音

 

 (長野県木曽町日義)

 

 義仲が勧請(かんじょう)したという。(勧請・・神仏の分霊を移して祀ること)

 

 

金刺盛澄像

 

 (長野県下諏訪町) 

 

 金刺盛澄(かねさしもりずみ)は手塚光盛の弟で弓の名手。

義仲寺

  (滋賀県大津市馬場) 

       義仲の墓がある。

 

  義仲の墓

  (滋賀県大津市馬場義仲寺(ぎちゅうじ)) 

         この近くで戦死したという。

 

  芭蕉の墓

  (滋賀県大津市馬場義仲寺)

    義仲の墓の隣にある。

 

 

根井氏館跡

 

 (長野県佐久市根々井)

 

 根井行親(ねいゆきちか)の館跡(正法寺付近)という。  

義仲ゆかりの地

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第一章 誕生から最期までの概要

 

第二章 義仲と合戦編

 

一、武蔵・嵐山で駒王丸誕生
二、信濃・木曽で義仲成長
三、保元・平治の乱で武者の世に
四、清盛の天下
五、以仁王・頼政の挙兵
六、木曽義仲の挙兵
七、平維盛軍の東国遠征
八、武田軍・勝利の富士川対陣
九、義仲軍・勝利の横田河原合戦
十、平維盛軍の北陸遠征
十一、義仲軍・勝利の倶利伽羅峠合戦
十二、実盛を討つ・篠原合戦
十三、平家軍・退却の混乱
十四、義仲は京中守護
十五、後鳥羽天皇即位
十六、イケメンの義仲(猫おろし事件)
十七、日食で敗退の水島合戦
十八、福隆寺縄手の戦い
十九、十月宣旨で頼朝優位に
二十、法皇へ反撃の法住寺合戦
二十一、義仲は征東大将軍
二十二、多勢に無勢の宇治川合戦
二十三、義仲最期の粟津合戦
二十四、鎌倉武家政権の成立
二十五、承久の乱と武家政権
二十六、疑問と答え

 

第三章 とりまく人物編

 

一、父・・・源義賢
二、母・・・小枝御前
三、養父・中原兼遠 
四、木曽四天王・・・今井・樋口・根井・楯
五、今井四郎兼平・・・乳母子(めのとご) 
六、樋口次郎兼光・・・今井四郎の兄
七、根井行親・・・四天王の一人 
八、楯六郎・・・根井行親の息子
九、覚明・・・義仲の書記 
十、巴御前・・・今井四郎の妹
十一、山吹御前・・・何処へ
十二、仁科盛家・・・信濃平氏
十三、手塚光盛・・・手塚治虫の先祖
十四、金刺盛澄・・・弓の名手
十五、源行家・・・義仲の叔父(おじ)
十六、志田義広・・・義仲の叔父(おじ)
十七、井上光盛・・・信濃源氏 
十八、矢田 義清・・・水島合戦
十九、岡田親義・・・信濃源氏 
二十、 山本義経・・・二人義経の一人
二十一、後白河法皇・・・大天狗 
二十二、以仁王・・・内乱の初め 
二十三、源頼政・・・内乱の初め 
二十四、斎藤実盛・・・駒王丸の恩人 
二十五、平清盛・・・武家政権の初め 
二十六、平維盛・・・美貌の貴公子 
二十七、源頼朝・・・鎌倉政権の初代 
二十八、源義経・・・判官贔屓(ほうがんびいき)
二十九、源範頼・・・頼朝の弟
三十、 平賀義信・・・頼朝の第一の家人
三十一、北陸宮・・・以仁王の王子
三十二、藤原基房・・・元関白 
三十三、藤原師家・・・短命の摂政
三十四、義高と大姫・・・悲劇の物語  
三十五、海野幸氏・・・義高に随行
三十六、武田信義・・・甲斐源氏 
三十七、安田義定・・・甲斐源氏 
三十八、一条忠頼・・・甲斐源氏
三十九、土岐光長・・・美濃源氏
四十、 村上信国・・・信濃源氏
四十一、葦敷重隆・・・尾張源氏
四十二、城長茂と坂額御前・・・巴のモデル
四十三、多田行綱・・・日和見の見本
四十四、登場人物は実在したか
四十五、木曽義仲の子孫
四十六、関東の武士団
四十七、北陸の武士団

 

第四章 史料編

 

一、『平家物語』・・・作者不明の軍記物語
二、『源平盛衰記』・・・『平家物語』の拡大版
三、『吾妻鏡』・・・鎌倉政権の歴史書
四、『玉葉』・・・九条兼実の日記
五、『吉記』・・・吉田経房の日記
六、『山塊記』・・・中山忠親の日記
七、『愚管抄』・・・僧・慈円の歴史書
八、『尊卑分脈』・・・初期の系図集
九、『保元物語』・・・保元の乱の軍記物語
十、『平治物語』・・・平治の乱の軍記物語

 

第五章 演習問題百問

 

 

 

第一章 誕生から最期までの概要

 

「通説」・・ 本書は木曽義仲の誕生から最期までを詳細に述べるのが目的である。 木曽義仲は平安時代末期に現れた英雄であるが、正確な史料が少なく謎の多い人物である。始めに通説を簡単に述べる。通説には正確な史料が少なく伝説も含まれ、真実とは限らない。


駒王丸誕生」・・ 木曽義仲は久寿(きゅうじゅ)元年(一一五四年)に京都御所の警備隊長を勤めた源義賢(みなもとのよしかた)の次男として武蔵(むさし、東京都+埼玉県)で産まれたという。幼名を駒王丸(こまおうまる)という。

 

信濃で成長」・・駒王丸が二才の頃、父の義賢は兄の義朝(よしとも)と関東で勢力争いのなか、義朝の長男の義平(よしひら)に討たれた。義平は十五才だった。義平は以後、悪源太義平(あくげんたよしひら)と呼ばれた。駒王丸も殺されそうになるが、運よく信濃(しなの、長野県)の木曽に逃れた。以後、養父の中原兼遠(なかはらかねとお)のもとで過ごすことになる。

 

「保元の乱・平治の乱」・・ この後、保元(ほうげん)の乱、平治(へいじ)の乱が起こり、義朝・義平親子は平清盛(たいらのきよもり)に討たれた。義朝の三男の頼朝(よりとも)は伊豆(いず)に流罪(るざい)となり、北条氏の監視下に置かれた。

 

「清盛の天下」・・ 以後約二十年間は平清盛の勢力が拡大し、清盛は太政大臣(だじょうだいじん)になった。駒王丸は木曽で養父の中原兼遠(なかはらかねとお)のもとで、十三才で元服して木曽次郎義仲(よしなか)と名乗った。後の官職に使用する正式名は源義仲(みなもとのよしなか)である。ここで二十数年を過ごした。

 

義仲挙兵」・・ 治承(じしょう)四年(一一八○年)義仲が二十七才の頃、平清盛の横暴に後白河法皇(ごしらかわほうおう)の子の以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨(りょうじ、王の命令)を全国の源氏の武将や大きな寺や神社などに発した。これに呼応して伊豆の頼朝が北条氏の支援により挙兵した。義仲も信濃で挙兵した。その他甲斐(かい、山梨)、近江(おうみ、滋賀県)、美濃(みの、岐阜県)、九州などの各地でも反平家の動きが起きた。頼朝は関東地方の武士団をまとめ、鎌倉に本拠地を構えた。


「富士川の対陣」・・ 九月末、平家は官軍として追討軍を関東へ向けたが、反乱軍の甲斐源氏軍や頼朝軍に対抗出来る兵力が集まらず、さらに敵方の甲斐源氏軍に降参する者が続出したので、合戦にもならず富士川から撤退した。これを富士川の対陣(一般には富士川の合戦)という。


横田河原合戦」・・ 養和(ようわ)元年(一一八一年)六月、清盛の指図により、越後(えちご、新潟)の城(じょう)氏が平氏方の義仲討伐軍として数万の軍勢が信濃へ進攻した。義仲軍は数千の兵力で信濃北部の横田河原において城氏軍に勝利した。ここは後の戦国時代に川中島の合戦が行われた地である。
 この合戦に勝利以後、信濃や越中(えっちゅう、富山県)・越後(えちご、新潟県)など北陸地方の武士団は義仲の味方が多くなった。


「養和(ようわ)の大飢饉(ききん)」
 この後、全国的な養和(ようわ)の大飢饉(ききん)となり、兵糧(ひょうろう)調達が困難なので、大規模な戦闘は休止状態となる。


倶利伽羅峠(くりからとうげ)合戦」・・ 寿永(じゅえい)二年(一一八三年)四月、平家は十万騎の義仲討伐軍を北陸地方へ派遣した。義仲軍は加賀(石川)・越中(富山)の境の砺波(となみ)山の倶利伽羅(くりから)峠で平家軍に勝利し、さらに平家軍を追って京都へ向かい進軍した。京都近国の反平家の武将などが義仲の味方についた。


義仲入京」・・ 七月二十五日、清盛一門の平家軍は京都から西国へ退却した。それまで京都市内の治安維持、警察は平家軍が担当していたので、平家軍の退却により京都市内の警察は空白となり、市民の放火や略奪などの大混乱となった。義仲軍は二十八日京都に入り、市内の治安維持と平家追討を命令された。義仲は京都市内の治安維持を担当し、治安が回復した後、西国へ平家追討軍を派遣した。しかし、水島合戦では平家軍に大敗した。


寿永の十月宣旨」・・ その間に、後白河法皇は頼朝に東山道・東海道の支配権を認める「寿永の十月宣旨」を下した。怒った義仲は法皇に大いに抗議した。


「法住寺合戦」・・ 法皇は法住寺御所に兵を集め、義仲に京からの退去を命令した。さらに義仲を攻撃しようとしたので、義仲は法住寺御所を攻撃し勝利した。義仲が政治の実権を握った。しかし、義仲入京時に義仲に味方した武将のほとんどが離反した。


征東大将軍」・・ 翌年の寿永三年(一一八四年)一月、木曽義仲は征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)に任命された。東国の頼朝を討つ目的である。朝日将軍は正式な官職名ではなく、後世の『平家物語』の作者の創作である。しかし、京都からの平家追討の大役を果たした義仲軍は一月二十日、鎌倉からの頼朝軍に敗れ、義仲も琵琶湖のほとりの粟津(あわつ)において討たれた。三十一才であった。


「鎌倉政権」・・ この後、頼朝源氏軍は一の谷合戦に勝利し、さらに翌年の屋島(やしま)の合戦、壇ノ浦(だんのうら)の合戦で平家軍に勝利し、平家(清盛)一門は滅亡した。
 頼朝は鎌倉において武士が領地を支配する武家政権を始めた。最期の手柄は頼朝のものとなった。頼朝は建久(けんきゅう)三年(一一九二年)に征夷(せいい)大将軍に任命された。


『平家物語』・・ この源平合戦をもとに創作し記述したものが『平家物語(へいけものがたり)』であり、木曽義仲は平清盛に続く悪役として登場する。一般読者は義仲が悪人で乱暴者と誤解する。歴史解説者は京都の公家の日記を参照して義仲軍の乱暴は事実であるとする。しかし公家の日記では京都市内における市民などの略奪などの乱暴の取り締まりを義仲軍の入京に期待し命令している。
 さらに僧侶の慈円(じえん)による歴史書や公家の日記によると放火や略奪などの乱暴は義仲軍の入京前から始まっており、また慈円の歴史書には義仲軍の入京後には略奪などの記述は無い


「治承・寿永の乱」・・ この源平合戦を「治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱」というが、単純な源氏と平家の戦いではない。頼朝に味方した関東武士の多くは平氏系である。もちろん北条氏も平氏系である。頼朝は彼らに利用されたのである。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝利者に都合の良いように歴史は記録される。清盛平家一門が滅びただけである。源頼朝の勝利のように見えるが、源氏も頼朝の子供の三代で終わりとなる。最終の勝利者は執権(しっけん)となった平氏系の北条氏である。


「承久の乱」・・ 頼朝に従属した関東の武士団は京都朝廷からの独立した関東国を希望していたが、頼朝は朝廷に従属する政権を志向したので反発を招いた。約四十年後の承久の乱では、執権の義時を討てという後鳥羽上皇の命令に立ち向かい勝利した。鎌倉政権の全国支配が完了した。ピンチではあったがチャンスとなった。


乱暴の記述」・・ 『平家物語(へいけものがたり)』などにより木曽義仲軍のみが乱暴を働いたと誤解されてきた。しかし、『平家物語』にも平家軍、頼朝軍も乱暴の記述がある。その他、公家の日記や僧侶の歴史書によると、僧兵や一般市民もどさくさに紛(まぎ)れて略奪した記述がある。鎌倉政権の公式記録とされる『吾妻鏡(あづまかがみ)』には京都駐留の鎌倉軍や義経追討の名目で全国に配置された守護(しゅご)や地頭(じとう)の乱暴が多数記録されている。これらの乱暴を敗者となった義仲軍に置き換えて非難している。『平家物語』は琵琶法師が市民に語る事により広まった。市民の前で市民や源氏軍の乱暴を語る事は出来ない。


木曽義仲の謎」・・ 木曽義仲について謎が多いのは正確な歴史的史料が少ないためである。通説の多くは『平家物語』や『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』の引用であり、これらは現代の歴史小説のようなものであり、作者の創作が混入しており、事実かは疑問である。京都の公卿の日記なども義仲についての記述は伝聞が多く事実かは疑問も多い。地方の伝説は、やはり事実か疑問である。例えば山吹御前の没地と伝わる所は全国に十カ所もある。実在の人物かも疑問とされる。

 

第二章 義仲と合戦編

 

① 史料の説明
 木曽義仲は『平家物語(へいけものがたり)』や『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』などの軍記物語や、それ以外の史料の『吾妻鏡(あづまかがみ)』『玉葉(ぎょくよう)』『吉記(きちき)』『愚管抄(ぐかんしょう)』などに記述されている。
② 『平家物語』諸本
 これらの軍記物語は現代の歴史小説のようなもので、事実かどうか疑問である。
 木曽義仲や今井兼平の最期は寿永三年正月二十一日となっているものがある。『玉葉』や『吾妻鏡』によると二十日が正しい。
 また軍勢の数は大袈裟になっており、数倍から十倍になっていると見てよい。(以下『平』と略す)
③ 「源平盛衰記」
 『源平盛衰記』は『平家物語』を拡大したものである。『源平盛衰記』には「巴は義仲の妾」とあるが、当時、正妻と妾の区別は無く、一夫多妻も多く、義仲にも数人の妻がいた。右大臣の九条兼実にも数人の妻(女房)がいたが差別していない。『源平盛衰記』は約百年後に編集されたので、この頃から正妻と妾の区別をするようになったか。(以下『源』と略す)
④ 『吾妻鏡』
 これは約百年後に北条氏により編纂され、鎌倉政権の公式記録とされる。義仲の活躍した寿永二年や、頼朝の死亡した年などの記録が無い。
  木曽義仲は征夷(せいい)大将軍に任命されたと記述しているが、『玉葉(ぎょくよう)』や『山塊記(さんかいき)』によると、どうやら征東(せいとう)大将軍のほうが正しいようである。(以下『吾』と略す)
⑤ 『玉葉』
 これは右大臣(名目のみ)・九条兼実(くじょうかねざね)の日記である。信用度は高い。義仲についての記述は伝聞のみである。(以下『玉』と略す)
⑥ 『吉記』
 これは法皇御所の書記官、吉田経房(よしだつねふさ)の日記である。最も信用度は高いが、欠落が多い。(以下『吉』と略す)
⑦ 『愚管抄(ぐかんしょう)』
 これは九条兼実の弟で、僧侶の慈円が晩年に書いた歴史書である。(以下『愚』と略す)
⑧ 『山塊記(さんかいき)』
 これは内大臣となった中山忠親(なかやまただちか)の日記である。
⑨ 以下、次のように史料名を省略します。
『平家物語(へいけものがたり)』・・・『平』
『平家物語・延慶(えんぎょう)本』・・・『延』
『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』・・・『源』
『吾妻鏡(あづまかがみ)』・・・『吾』
『吉記(きちき)』・・・『吉』
『玉葉(ぎょくよう)』・・・『玉』
『愚管抄(ぐかんしょう)』・・・『愚』

 

一、武蔵・嵐山で駒王丸誕生

 

① 通説
 木曽義仲は埼玉県比企(ひき)郡嵐山町(らんざんまち)大蔵の館で誕生したという。近くに義仲の産湯の清水のある鎌形八幡(かまがたはちまん)神社、父の義賢(よしかた)の館跡、山吹姫が創建した班渓(はんけい)寺などの伝説がある。
 「嵐山町(らんざんまち)」は、昭和三年に当地を訪れた本多静六林学博士により、武蔵渓谷(けいこく)の様子が京都の「嵐山(あらしやま)」に大変よく似ているということで「「武蔵嵐山」と名付けられたもので、その後、町名に採用されたという。
② 義賢の死亡地
 『平家物語(へいけものがたり)』には「父義方(よしかた、義賢)は悪源太義平(あくげんたよしひら)に討たれた」。
 『平家物語・延慶(えんぎょう)本』には「義賢は上野(こうずけ、群馬県)国多胡(たこ)郡に居住し、秩父(ちちぶ)次郎大夫(たいふ)重隆の養君になりて、武蔵(むさし、東京都・埼玉県)国比企郡へ通いける。義朝(よしとも)の一男悪源太義平が大蔵の館にて義賢、重隆共に討った」。
 『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』には「父義賢は武蔵国(上野国のミスか)多胡郡の住人で、秩父次郎大夫重澄の養子である。義賢が武蔵国比企郡へ行くのを、義朝の嫡男(ちゃくなん)悪源太義平が相模国大倉口で討った。この時、義仲は二歳で、名を駒王丸(こまおうまる)と言う」とある。
③ 『吾妻鏡』・・・鎌倉政権編集の歴史書
 『吾妻鏡(あづまかがみ)』には「義仲は帯刀先生(たちはきせんじょう)義賢の二男である。義賢は武蔵国の大倉の館で、鎌倉の悪源太義平に打ち滅ぼされた」とある。
④ 駒王丸(こまおうまる)の生誕地は
 いずれも父の義賢の居住地か死亡地の説明のみで、義仲の生誕地の記述は見られない。そこで、義仲の生誕地は上野国多胡郡または東京都の大蔵という説もある。幼児期の名前も「駒王丸(こまおうまる)」と記述するのは『源平盛衰記』である。
⑤ 駒王丸の母・小枝(さえ)
 駒王丸の母は秩父次郎大夫重隆の娘と推定される。いずれの本にも母の名前の記述は無い。『木曽家伝』には「母は三位中将の娘小枝」とある。『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』には「母は遊女」とある。当時の遊女は現代の女芸人かタレントか。となれば京都にいた人か。
⑥ 悪源太義平(あくげんたよしひら)
 この頃の「悪」は強いの意味である。義平は義朝の長男で十五才の少年ながら、叔父の義賢を討ち取った強いやつという意味で悪源太義平と呼ばれた。比叡山の僧兵なども強いやつという意味で「悪僧」と呼ばれた。

二、信濃・木曽で義仲成長

 

① 通説
 駒王丸(義仲)は義平の追及を逃れ、畠山重能(はたけやましげよし)や斎藤実盛(さねもり)の援助により、信濃の木曽へ来たという。
 義仲は現在の長野県木曽郡木曽町で、養父の中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとで成長したという。
② 木曽町
 木曽町には義仲の養父「中原兼遠の屋敷跡」、義仲の学問所とされる「手習(てならい)天神」、「義仲の館跡」、「旗挙(はたあげ)八幡」、母の菩提(ぼだい)寺の「徳音(とくおん)寺」などの伝説がある。
 木曽町や開田高原など木曽郡全体からは石器や土器が発掘されているので、古代から人類が生活していた形跡はあるが、義仲や武士の館跡を示す遺構は見つからない。古い地名として屋敷、陣垣外(じんがいと)、下垣外(しもがいと)、鍛冶垣外(かじかいと)など武家館を想像させる地名が残る。
③ 信濃国木曽とは
 『平家物語』には「母が抱えて信濃国の木曽中三兼遠のもとへ」、『平家物語・延慶(えんぎょう)本』には「信濃国安曇郡(あずさのこおり)木曽の山下へ」、『源平盛衰記』には「信濃国安曇郡木曽へ」、『吾妻鏡(あづまかがみ)』には「中三権守(ごんのかみ)兼遠(かねとお)は義仲を抱いて信濃国木曽へ」とある。当時の信濃国守(県知事)は京都にいて、実務は権守(副知事)兼遠が担当した。兼遠が実質上の国主に相当する。
 現在の木曽郡は当時は美濃(みの、岐阜県)国に属し、「岐蘇(きそ)」または「吉蘇(きそ)」の文字が使用されていた。
④ 元服して木曽次郎義仲
 駒王丸は木曽で養父の中原兼遠(なかはらかねとお)のもとで成長し二十数年を過ごした。十三才のとき京の石清水(いわしみず)八幡宮で元服して通称「木曽次郎義仲」と名乗った。これは曽祖父の源義家が石清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と名乗ったという故事に倣ったものだろう。
 後の官職に使用する正式名は源義仲(みなもとのよしなか)である。義仲が何故、「木曽」と名乗ったか。多分、当時の信濃には木曽と名乗る武士がいなかった。『保元物語』や『平治物語』には「木曽忠太」や「木曽弥忠太」、『平家物語』には「木曽忠次」など「木曽」氏が登場するが、多分後世の創作とみられる。
⑤ 兄妹
 『平家物語』によると、義仲には京都に「仲家」という兄がいた。源頼政(みなもとのよりまさ)の養子となり、八条院(後白河法皇の妹)の蔵人(くろうど、雑務職)として仕え、以仁王の挙兵のとき、源頼政と共に戦死したという。
 『吾妻鏡』によると美濃(みの、岐阜県)国遠山庄(とおやましょう)に「宮菊」という妹がいたという。
⑥ 木曽義仲の松本成長説
 明治二十七年、東京帝国大学の国史編纂(へんさん)官の重野博士が松本中学(松本深志高校)で「木曽義仲の松本成長説」を講演した。
 その頃、信濃国府(こくふ、国の役所)は松本にあり、中原兼遠が権守(ごんのかみ、副知事)なら、松本付近に住んでいたはずだという。義仲四天王(してんのう)の今井四郎や樋口次郎の居住地の今井村や樋口村も付近にあったという。
 木曽義仲が成長したのは、現在の木曽では無く、松本市の南部や塩尻市、朝日村付近だという。塩尻市の小曽部(こそべ)が木曽部であったという。義仲ゆかりの伝説も多い。駒王丸を狙った義平も、後の「平治の乱」で死亡したので、いつまでも木曽の山奥にかくまう事は無いという。木曽町の中原兼遠屋敷は領地支配の館だったか。

 

南宮大社

 

 (岐阜県垂井町)

 

 義仲が日義の南宮神社に勧請したという。

三、保元・平治の乱で武者の世に

 

① 概要
 保元(ほうげん)の乱・平治(へいじ)の乱とは天皇や上皇(じょうこう)の皇族、公家、源氏や平氏の武士団が権力闘争のため親子・兄弟でも敵と味方に分かれて争った。
 (複雑な対立関係の戦なので読み飛ばしても構わない。結果として、義仲を殺そうとした義朝や義平が消えた)
② 保元の乱
 保元の乱は保元元年(一一五六年)七月、崇徳(すとく)上皇(じょうこう)と後白河(ごしらかわ)天皇が対立し争った。
 崇徳上皇が兄(鳥羽天皇の第一皇子)、後白河天皇は弟(鳥羽天皇の第四皇子)である。
 崇徳上皇には藤原頼長(よりなが)、武士の源為義(ためよし)や源為朝(ためとも)や平忠正などが味方に付いた。
 後白河天皇には藤原忠通(ただみち)、武士の源義朝(よしとも)や平清盛(きよもり)と重盛(しげもり)などが味方した。
 藤原忠通が兄、藤原頼長は弟である。為義の長男が義朝、八男が為朝である。平忠正は清盛のおじである。このように親子・兄弟で敵と味方に分かれた。
③ 崇徳(すとく)上皇は流罪(るざい)
 保元の乱の結果、後白河天皇や平清盛、源義朝などの連合が勝利した。負けた側の頼長は没し、崇徳上皇は讃岐(さぬき、香川県)国へ流罪(るざい)となった。負けた側の武士の多くは死罪となった。死刑が復活し、武士の力が強くなる「武者の世(むさのよ)」をもたらした。
 清盛は播磨守(はりまのかみ)、義朝は左馬頭(さまのかみ)に任命された。
・播磨守(はりまのかみ)・・・播磨(兵庫県の西南部)国の国府の長官。
・左馬頭(さまのかみ)・・・馬の生育、訓練をする左馬寮(さまりょう)という役所の長官。当時の武士にとり最高に名誉な官職。右馬頭(うまのかみ)もある。
④ 院政
 保元三年(一一五八年)八月、後白河天皇は第一皇子の守仁親王に譲位(じょうい)し、二条天皇が即位した。後白河天皇は上皇(じょうこう)となり、院政(いんせい)を行い、後々には二条天皇と対立する。
 院政とは、天皇が皇子に天皇の位を譲り、自分は上皇(院)となり、院(上皇)が政治を行う。天皇を補佐する者と上皇を補佐する者との対立(権力闘争)が多くなる。
⑤ 平治の乱
 平治の乱とは平治元年(一一五九年)十二月、保元の乱の後、勝利した後白河上皇の側近の信西(しんぜい、藤原 通憲)と藤原信頼(のぶより)が対立し、藤原信頼は源義朝と組んで信西をほろぼした。しかし、後に藤原信頼と源義朝は平清盛に討たれた。
⑥ 頼朝は流罪
 平治の乱の結果、後白河上皇や平清盛などが勝利した。義仲を殺そうとした源義朝や長男の義平は討たれた。三男の頼朝は伊豆へ流罪(るざい)となった。九男の義経は鞍馬(くらま)寺に預けられ、後に逃げ出し奥州の藤原氏を頼った。
⑦ 武者の世(むさのよ)・・・慈円の『愚管抄』より
 貴族や領主は警備・治安維持のため、武芸に優れた武士を警備要員として採用した。次第に武士が政治にも口出し手出しするようになった。貴族や領主も武力には武力で対抗せねばならず、武士に頼る悪循環に陥ってしまった。武者の世(むさのよ)となる。
⑧ 「勝てば官軍、負ければ賊軍
 官軍(朝廷側)であっても負ければ賊軍になってしまう。戦は勝たねばならない。
勝った側が官軍となり、負けた側は賊軍となる。保元・平治の乱の結果、武者の世になった。
⑨ 清和源氏
 清和天皇の子孫で源(みなもと)の姓(氏)を賜り、武芸に優れる事で勢力を伸ばした。 源頼朝、木曽義仲は清和源氏の子孫である。同じ清和源氏でも勢力を広げた地方の名で呼ぶ事もある。河内(かわち)源氏、信濃源氏、甲斐(かい)源氏などがある。
その他、村上天皇の子孫の村上源氏、宇田天皇の子孫の宇田源氏などもいる。
⑩ 桓武平氏
 桓武天皇の子孫で平(たいら)の姓(氏)を賜り、武芸に優れる事で勢力を伸ばした。伊勢平氏、北条、畠山、千葉、三浦、梶原などがいる。平清盛は伊勢平氏の子孫である。
⑪ 天皇、上皇の呼び方
 現在の天皇は今上天皇となり、「きんじょう」とか「おかみ」などと言う。上皇は「院」などと言う。

 

義仲駒掛岩

 

 (岐阜県高山市高根) 

 

 義仲が馬を休めた岩という。

四、清盛の天下

 

① 概要
 保元・平治の乱の結果、勝ち残った後白河上皇と平清盛が政治権力を握った。武力を持つ清盛の力は後白河上皇をも上回り、平時忠に「平家にあらざれば人に非ず」と言わせるほどの栄華を極めた。まさに武者の世になった(『愚管抄』)。
 (複雑で長いので読み飛ばしても構わない。結果として、以仁王(もちひとおう)の挙兵を始めとする内乱が起こる)
② 平清盛一門の繁栄
 平治の乱の平治元年(一一五九年)から治承四年(一一八○年)の以仁王(もちひとおう)の挙兵に始まる内乱により、義仲軍に圧迫され西国に退却する寿永二年(一一八二年)まで、約二十年間、平清盛一門の繁栄が続いた。武士でも清盛の親類縁者のみ重用したので、清盛一門以外の平氏や源氏からは反発を招いた。
③ 『平家物語』の真相
 『平家物語』には詳しく語るが、軍記物語であるから、大袈裟になり、創作が加えられ、事実かどうかは疑問である。例えば平重盛(しげもり)は清盛より立派な人物として描かれているが、『玉葉』や『愚管抄』によると逆の事もあるようである。また事件の記述の順序が史実と異なる場面もある。室山合戦の順序が史実とは逆である。
④ 六条天皇(二条天皇の子)即位。
 一一六五年八月、二条天皇から六条天皇(二条天皇の子)に変わる。
⑤ 清盛、太政大臣
 一一六七年二月、清盛は官職の最高位の太政大臣(だじょうだいじん)となった。しかし、当時の太政大臣は名誉職であり、実務は左大臣や内大臣が行った。清盛を太政大臣に祭り上げ、実務から遠ざけようとした。『玉葉』の著者の九条兼実は右大臣だったが、清盛や後白河上皇から敬遠された。
 一一六八年、清盛は病気になり回復後、出家(しゅっけ、僧になる事)して浄海(じょうかい)と名乗った。
⑥ 高倉天皇即位
 一一六八年二月、清盛の妻の甥にあたる憲仁(のりひと)親王が即位し、高倉天皇となった。
 一一六九年、後白河上皇も出家して後白河法皇となった。平清盛は次女の徳子を高倉天皇の妃(きさき、中宮)とした。
⑦ 「鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀(いんぼう)事件」
 一一七七年、鹿ケ谷(ししがたに)の俊寛(しゅんかん)の別荘に、清盛に反感を持つ者が集まり清盛の悪口を言った。清盛に知られて参加者が処分された。
⑧ 「治承(じしょう)三年の政変
 治承(じしょう)三年(一一七九年)六月、清盛の娘である白河殿盛子が死去した。七月には清盛の長男の重盛が死去した。後白河法皇は盛子の所領の全てを没収し、重盛の知行国も没収したので清盛は怒った。
 十一月、怒った清盛はクーデター(暴力的な政変)を起こし、後白河法皇を幽閉し、院政を停止した。清盛が政治の実権を握った。清盛の怒りはまず関白(かんぱく)松殿(まつとの)基房(もとふさ)に向けられ、関白を解任されて、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷(させん)された。基房の身柄は実際に大宰府に送られることになったが、その途上に出家したことで備前国への配流に減免された。
 この治承三年の政変が平氏による武家政権の始まり とされる。
⑨ 安徳天皇即位
 清盛は治承(じしょう)四年(一一八○年)高倉天皇の妃徳子の子に譲位(じょうい)させて安徳(あんとく)天皇とした。清盛の孫が安徳天皇となり、高倉天皇は高倉上皇となった。清盛の発言力がさらに強くなった。

 

五、以仁王・頼政の挙兵

 

① 概要
 以仁王(もちひとおう)の挙兵(きょへい)とは、治承(じしょう)四年(一一八0年)に高倉天皇の兄宮である以仁王(もちひとおう)と、源頼政(みなもとのよりまさ)が平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏や興福寺や延暦寺などの大寺社に平氏打倒の令旨(りょうじ)を発した事件である。この王などの命令書を「令旨(りょうじ)」という。天皇の命令書を「宣旨(せんじ)」、上皇の命令書を「院宣(いんぜん)」という。
② 以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)
 後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)は、清盛の妨害により親王にもなれず、領地も没収された。耐えかねた以仁王は全国の源氏の武士などに清盛を討てと命令書を発した。これを以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)という。
③ 宇治平等院の合戦
 準備不足のために露見して清盛の追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の合戦で戦死し、早期に鎮圧(ちんあつ)された。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。
④ 「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱」始まる
 以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や木曽(源)義仲、甲斐源氏、近江源氏など反平氏勢力が挙兵し、全国的な内乱となる「治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱」が始まった。一般には源平合戦という。
⑤ 北陸宮(ほくろくのみや)
 八条院(後白河法皇の異母妹)の御所にいた以仁王の子供たちは、平頼盛が連行して出家させた。そのうちの一人が北陸に逃れて木曽義仲に助けられた。義仲はその皇子を「北陸宮(ほくろくのみや)」として、上洛時に北陸宮を推挙して、平氏と共に西走した安徳天皇に代わり皇位に就けようとした。
⑥ 関東支配の大義名分
 以仁王の死後も頼朝は自らの関東支配の大義名分として「以仁王の令旨」を掲げ、寿永年号に改元後も治承年号の文書を発給している。しかし、寿永二年(一一八三年)後白河法皇からの「寿永二年十月宣旨」により関東支配が公認されると、「以仁王令旨」は失効として、治承年号を止め、寿永年号を使用した。
⑦ 福原遷都(ふくはらせんと)
 六月、清盛は京都近辺の大寺院の反勢力をおそれて、都を京都から福原(兵庫県神戸市)に移し、天皇や法皇と共に公家や官吏の大部分が福原へ移住させた。しかし、反対意見が多くなり、十一月には元の京都へ還した。

 

 

旗挙八幡宮

 

 (長野県木曽町日義) 

 

 義仲が旗揚げしたという。

六、木曽義仲の挙兵

 

① 通説
 治承四年(一一八○年)九月、義仲は信濃国木曽で挙兵した。長野県木曽郡木曽町には旗挙(はたあげ)八幡神社がある。傍らに樹齢八百年のケヤキの木がある。
② 頼朝挙兵
 『吾妻鏡』によると、四月、以仁王の令旨は伊豆の源頼朝に届いた。ようやく八月十七日、頼朝は伊豆で挙兵した。地元の代官を攻撃し勝利した。しかし二十三日、石橋山の合戦で敗れ、かろうじて安房(あわ、千葉県)国に逃れた。
③ 義仲挙兵
 木曽義仲が挙兵したとき、『平家物語』には「信濃国の兵者共、なびかぬ草木もなかりけり」、『平家物語・延慶本』や『源平盛衰記』には「以仁王の令旨により、国中の兵を従えて、千余騎に及ぶという」とある。挙兵地の地名は特定されない。
④ 丸子で挙兵
 上田市の丸子で挙兵したという説がある。義仲には信濃東部の多くの武将が味方した。上田市(丸子地区)には義仲館跡や依田城跡など多くの伝説がある。
⑤ 白鳥河原で挙兵
 白鳥河原で挙兵したという説もある。東御(とおみ)市の白鳥神社の前に白鳥河原がある。『源平盛衰記』に「横田河原合戦の前に白鳥河原に二千余騎が集まった」とある。
⑥ 最初の戦
 『平家物語』には「義仲が法住寺合戦の前に「麻績(おみ)・会田(あいだ)の戦より始め、」と言う。」とある。松本市と上田市の中間に麻績(おみ)村と会田という地名がある。
⑦ 市原合戦
 『吾妻鏡』には「治承四年(一一八○年)九月、「市原合戦」があった。平氏方の笠原頼直(かさはらよりなお)と義仲に味方する村山義直と栗田寺の別当(べっとう)範覚(はんかく)らが信濃の市原で合戦した。義仲が大軍を率いて到着すると、頼直は越後(えちご、新潟県)の平氏方の城長茂(じょうながもち)の陣へ加わるために越後国へ逃げた」とある。(市原は市村の誤記という説がある。)
⑧ 甲斐(かい、山梨県)源氏の信濃侵攻
 『吾妻鏡』には、「九月、甲斐源氏の武田信義・一条忠頼が信濃平定を目指し、諏訪(すわ)へやって来た。そこで諏訪篤光の妻から、諏訪大社上社の御神託を告げられ、伊那の大田切郷の平家味方の菅冠者(すがのかじゃ)を攻撃した。菅冠者は館に放火し自害した。戦勝を喜んだ甲斐源氏は諏訪大社に寄進をし信濃を去る」とある。
⑨ 上野(こうづけ、群馬県)国進出
 『吾妻鏡』には「十月、義仲は上野国に進出した。亡父義賢のゆかりの地、上野国多胡郡で味方を募集した。この頃は平氏与党の足利(あしかが)俊綱(としつな)の勢力が強かった。義賢にゆかりの多胡(たこ)氏、那波(なは)氏などが味方についたという。
 十二月、上野国から信濃へ戻った。上野国は、すでに頼朝の味方についた武士が多い」とある。これ以上は無理と判断したという。
⑩ 下文(くだしふみ、所領安堵状(しょりょうあんどじょう))
 『市河文書(いちかわもんじょ)』によると、北信濃の武将、中野助弘は治承四年(一一八○年)十一月に木曽(源)義仲から下文(所領安堵状)をもらった。しかし、寿永二年十二月になり、義仲が不利になると頼朝の弟の醍醐禅師(だいごぜんし)全成(ぜんせい)、阿野全成・悪禅師)から、下文(所領安堵状)をもらった。
・『市河文書』・・・北信濃の武将、市河氏の保存していた古文書。 
⑪ 源為義(頼朝の祖父)の下文
 朝廷の領地または荘園を勝手に味方となる武士に与えている。朝廷からすれば下文(所領安堵状)を与えるのは違法な行為である。しかし、反乱軍であるからこそ出来る行為である。
 『吾妻鏡』文治三年十一月に、保元三年二月の源為義(頼朝の祖父)の下文を持っていた山口家任という武士が頼朝に見せて所領安堵を申し出た。かなり昔からこのような下文が発行されていた。自分の領地の一部を与えるなら合法である。

 

小野神社

 

 (長野県塩尻市北小野) 

 

 義仲が再建したという。

 

矢彦神社 

 

  (長野県辰野町)

 

 義仲が社殿を造営したという。

 小野神社と隣接している。

七、平維盛軍の東国遠征

 

① 通説
 源頼朝ら源氏の挙兵に対し、平家は東国へ遠征軍を派遣した。治承四年九月五日、平維盛(たいらのこれもり)は東国追討軍の総大将となった。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の忠清と内輪もめで出発は月末まで遅れた。
 出陣する二十三歳の大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったという。
② 甲斐(かい、山梨県)源氏の挙兵
 治承四年八月頃には武田信義(たけだのぶよし)、安田義定(やすだよしさだ)、一条忠頼(いちじょうただより)ら甲斐源氏が挙兵して甲斐(かい、山梨県)国を制圧した(『山槐記(さんかいき)』)。
③ 頼朝挙兵
 八月十七日、源頼朝は伊豆で挙兵し地元の代官を討ったが、二十三日、石橋山の合戦で敗れた。再起を図り安房(あわ、千葉県)国に逃れた。進軍しながら東国武士が参集して数万騎の大軍に膨れ上がり、十月上旬鎌倉へ入り根拠地とした。
④ 遠征軍の編成
 当時の朝廷からの遠征軍は、官軍として指名された平維盛などの大将軍以下割合少数の中心部隊が出発し、宣旨(せんじ、天皇の命令書)を掲げて進軍し、武士や兵糧を集めながら大部隊に編制するものであった。いわゆる駆り武者(かりむしゃ)方式である。参加した武士には後に功績により官位や官職などの恩賞が与えられた。
⑤ 駆り武者(かりむしゃ)
 駆り武者(かりむしゃ)とは朝廷や国府からの軍勢催促を受けて参集する。家に仕える郎党と違い、勝ち戦なら恩賞が得られると張り切るが、負け戦となると、名誉と退却の機会を見計らい退却してしまう。
⑥ 東国追討軍
 東海道を下る追討軍は、出発が遅れている間に各地の源氏が次々と挙兵し、進軍している情報が広まり、味方が集まらず、凶作で糧食の調達も困難であった。何とか兵員を増やしながら駿河国に到着し、数千騎が甲斐源氏(武田軍)討伐にむかった。
 一方、甲斐(かい)国で挙兵した武田信義らは駿河(するが、静岡県中央)国目代(もくだい、代官)を討ち取った。その両者が駿河国で相対した。

 

八、武田軍・勝利の富士川対陣

 

① 通説
 富士川の対陣(ふじかわのたいじん)は、平安時代後期の治承四年十月二十日に駿河(するが、静岡県中央))国の富士川で平維盛(たいらのこれもり)と源頼朝、武田信義との対陣である。従来は、富士川の合戦と呼んだが、実際には合戦にならず、対陣したのみで平維盛軍は退却した。
② 反乱軍の勝利
 十月二十日、都から派遣された平維盛(これもり)率いる追討軍とは対陣のみで、合戦にもならず反乱軍側の勝利となり、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江(とおとうみ、静岡県西部)での分割占領とした。
③ 官軍敗退帰京
 頼朝討伐のため京都から東に向かった平維盛が率いる平家軍は、合戦にもならず武田軍に敗退して帰京した。実際には富士川より手前の手越宿で退却した。鳥の羽ばたき音を敵の奇襲と勘違いして逃げたという噂があった(『山槐記』)。
④ 甲斐源氏の実効支配
 『平家物語』や『吾妻鏡』には、平家軍を頼朝軍が追い払ったとしているが、実際は甲斐の武田軍の功績が大きい。『平家物語』に「駿河国を一条忠頼に、遠江を安田義定に預けた」とか、『吾妻鏡』に「遠江の守護を安田義定に、駿河に武田信義」となっている。しかし実際には甲斐源氏が先に占領し、実効支配し、頼朝はやむを得ず追認したという事だろう。
⑤ 南都炎上
 十二月、平家軍は奈良の僧兵退治に平重衡(しげひら)が大将軍として四万騎が乗り出した。火災が発生し、東大寺、興福寺の大部分が焼け落ちた。
⑥ 清盛の遺言
 治承五年(一一八一年)一月、高倉上皇が没し、次いで閏(うるう)二月、清盛が熱病により六十四才で没した。
 『平家物語』に「清盛は死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残した」という。しかし、事実は異なるようである。
 清盛が死亡した年の八月、頼朝が密かに後白河法皇に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子孫は一人生き残る者といえども、骸(むくろ)を頼朝の前に晒(さら)すべし」と述べて、これを拒否したという(『玉葉』)。
⑦ 頼朝から後白河法皇への蜜奏(治承五年(一一八一年)八月)(『玉葉』)。
 ・頼朝に謀反の心はなく、院の御敵を討つために戦いを起こした。
 ・院に平氏を滅ぼす御心がないのなら、昔のように源氏と平氏を並べてお使いになり、西国は平氏、東国は源氏に任せるのがよい。
 ・朝廷より補任された者が国司となり、源氏と平氏は東西の乱を鎮める。
 ・源氏と平氏は、王家を守護する武家として君命を守る。

 

 

武水別(たけみずわけ)神社

 

 (長野県千曲市) 

 

 義仲が戦勝祈願したという。

九、義仲軍・勝利の横田河原合戦
 
① 通説
 横田河原(よこたがわら)合戦は、治承五年(一一八一年)六月十三日、信濃(しなの、長野県)で挙兵した木曽義仲らの源氏に対して平氏方の越後(えちご、新潟県)の城(じょう)長茂(ながもち)が侵攻した合戦である。後年、武田信玄と上杉謙信による川中島の合戦が行われた場所でもある。
 現在の長野県長野市の横田河原付近で越後の城氏軍の数万騎(実数は約一万騎)と義仲軍の数千騎が戦った。義仲軍は計略で勝利したという。
② 市原合戦
 治承四年(一一八○年)九月頃には木曽義仲、岡田親義、井上光盛などの信濃の源氏が以仁王の令旨を報じて挙兵した。これを受けて市原(現長野市若里市村)の渡し付近で平氏方の笠原氏と源氏方の村山氏や栗田氏との間で前哨戦があったが決着が付かなかった(市原合戦)。それに対して、平氏は信濃に隣接する越後の実力者城助長(すけなが)を国守に任じて追討を命じた。助長は出発の前日に急死し、弟の城長茂(ながもち)が後継者となった。
③ 横田河原合戦
 六月十三日、城長茂(ながもち)は四万余騎を率いて信濃国川中島平に侵攻し、雨宮の渡しの対岸の南部の横田城に布陣した。それに対して義仲は佐久郡の依田(よだ)城を拠点に、木曽衆(今井、樋口など)・佐久衆(根井、楯など)・上州衆(多胡、那波など)の三千余騎を白鳥河原に集結して北上し、横田河原で両者の合戦となった。この時、井上光盛が千曲川対岸から平家の赤旗を掲げて城氏軍に渡河接近し、城氏本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという計略が功を奏し勝利したという(『平家物語』)。
④ 義仲軍の勝利
 越後軍は長旅の疲れや油断もあり元の軍勢は一万余騎だったが、九千騎余が討たれたり、逃げ去り、兵力では城軍に遥かに劣る信濃勢が勝利を収めた
 長茂は負傷して、約三百騎で越後に逃げ帰るが、敗戦後は離反する者が相次ぎ、奥州会津へ撤退した。その後、長茂は会津で奥州藤原氏の攻撃を受けそこも撤退し、城氏は一時没落した(『玉葉』)。
⑤ 義仲、名声上がる
 勝利を収めた義仲は越後国府に入り、越後を支配下に収めた。この信濃勢の勝利の後、若狭(わかさ、福井県南西部)、越前(えちぜん、福井県北部)などの北陸諸国で反平氏勢力の活動が活発になり、義仲は後に倶利伽羅(くりから)峠の合戦で大勝を得て北陸を制覇する基盤を獲得した。信濃・上野の二ケ国に越前、能登、加賀、越中、越後の五か国を加えた七ケ国を実効支配する事になった。平氏は北陸の味方を失い、治承・寿永の乱で不利になった。
⑥ 戦勝祈願
 武水別(たけみずわけ)八幡に戦勝祈願した(『源』)。善光寺は先年の治承三年三月に火災で焼失した(『平』)ので、戦勝祈願は出来なかった。善光寺は後に頼朝が再建の命令を出し、信濃の武将は寄付・協力を強制された(『吾』)。
⑦ 養和の大飢饉
 横田河原の合戦の後、養和(一一八一年から一一八二年)の大飢饉が続き、食糧が不足のため、全国的に合戦などの動きは無かった。
⑧ 頼朝と義仲の不和
 寿永二年(一一八三年)三月、頼朝は義仲を討とうとして数万騎の軍勢で信濃へ侵攻した。理由は鎌倉から離反した叔父の行家や、反抗した叔父の志田義広を義仲の陣営に加えた。または義仲が平家と和議を結ぼうとしたとの告げ口があったという。
 義仲は信濃と越後の境に陣を構え、頼朝に和議を申し入れた。義仲は長男の義高を人質として鎌倉に送る事にした(『平家物語』)。
⑨ 未だ江戸時代のような長男優先の制度は無い。縁故、能力、実力主義の時代である。頼朝は義朝の三男である。長男の義平が死んだので、後継ぎとみなされた。母方の身分が高いので出世に有利である。義仲は義賢の次男であるが、やはり長男が死んだ。義仲も頼朝も甲斐源氏も源氏一族の頭となる資格はある。源氏一族の頭となろうとする頼朝は反抗する義仲や甲斐源氏などの存在が許せない。後に次々と消してゆくのである。

 

 

白鳥神社

 

 (長野県東御市) 

 

 社前の白鳥河原が挙兵の地という。

十、平維盛軍の北陸遠征

 

① 概要
 寿永二年(一一八三年)四月、木曽義仲追討のため、十万余騎の平家軍が北陸道を京都から北陸地方に向かった。またも平維盛が総大将となった。実数は十分の一と推定される。九条兼実の『玉葉』には四万騎と伝聞されている。
② 「有名無実の風聞」・・・『軍記物語』の軍勢の数と実際の数について。
 『玉葉』の著者、九条兼実は平家軍が家の近くを通るので、数えさせたら、千八十騎だった。世間のうわさ話では七、八千騎から一万騎だという。つまり七・八倍から十倍に誇張されている。「有名無実の風聞」これをもって察すべしであるという。
 また『吉記』の著者、吉田経房には三千騎と、やはり多めに報告されている。多分、物語は大袈裟にしたほうが面白いと、数倍から十倍にするのは当然だろう。
③ 遠征軍の兵糧調達・・・乱暴狼藉
 この頃、遠征軍は進軍路で兵糧調達のため乱暴な取り立てを行いながら進軍した。これは養和の大飢饉の後のため、兵糧米が京都付近では十分に調達出来なかったので、進軍路での兵糧調達「追捕(ついぶ)」を朝廷から許可を受けた。この事は全ての『平家物語』の「北陸下向」に記述がある。朝廷から許可を受けたとはいえ、調達される側からみると略奪に等しい。また単に食糧を調達されるだけでなく、兵士や従者として強制連行される事もあるので、人民は山野に逃げたという。
 また出発前に京都市内でも兵糧調達のために乱暴した事が『玉葉』に記述されている。
 以後、大軍の遠征には進軍路での官軍の追捕として兵糧調達が当然とされた。
『平家物語・延慶本』の「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」にも、「義経軍が一の谷合戦の前に進軍路での勝尾寺で乱暴な兵糧調達を行い、放火し勝尾寺が消失した」と記述している。実は平家軍も頼朝軍も乱暴狼藉を働いている。
 歴史小説家は何故かこの場面はパスする事が多い。要するに、乱暴狼藉は義仲軍のみがしたと強調したいようだ。または本当に誤解しているか。
④ 火打城(ひうちがしろ)の合戦
 平家は平維盛(これもり)を総大将とする十万騎(『玉葉』によると四万騎)の大軍を北陸道へ差し向けた。平家軍は越前(えちぜん、福井県北部)国の火打城(ひうちがしろ)の合戦では、火打城は川を塞き止めて作った人造の湖に囲まれていたが、城に籠もっていた平泉寺長吏(ちょうり)斉明が平氏に内通し人造湖の破壊の仕方を教えた。平氏は得た情報を元に湖を決壊させて城を打ち破り、その後火打城を落とした。義仲軍は越中(えっちゅう、富山県)国へ後退した。平泉寺長吏斉明は後の篠原の合戦で捕まり処刑された(『平家物語』)。
⑤ 般若野(はんにゃの)の合戦
 五月九日明け方、加賀(かが、石川県)国より平氏軍先遣隊の平盛俊が進軍し、般若野(はんにゃの、富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた。木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲され、不利となった平盛俊軍は倶利伽羅峠まで退却した。
⑥ 騎馬武者数と軍勢数
 騎馬武者一騎は武者一人と馬一頭とは限らない。通常、徒歩の従者と予備の馬が付くので、数倍の人数と馬数となる。

十一、義仲軍・勝利の倶利伽羅峠合戦

 

① 概要
 倶利伽羅峠合戦(くりからとうげのかっせん)、または、砺波山合戦(となみやまかっせん)は、寿永二年(一一八三年)五月に、越中(えっちゅう、富山県)・加賀(かが、石川県)国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部(おやべ)市-石川県河北郡津幡(つばた)町)で平維盛(これもり)率いる平家軍十万余騎木曽義仲軍五万余騎との合戦である。実数はそれぞれ十分の一と推定される。九条兼実の『玉葉(ぎょくよう)』の伝聞によれば平家軍四万騎義仲軍五千騎未満である。
② 般若野合戦
 十万余騎の平家軍の先遣隊が現在の石川県と富山県の境の倶利伽羅峠を超えてきた。般若野(はんにゃの)で今井四郎の軍が反撃した。平家軍は倶利伽羅峠まで退却し夜営した。そこを奇襲した義仲軍が勝利した。
③ 平家軍の布陣
 平家軍十万余騎は、加賀国と越中国の国境の砺波山に大手(おおて)の平維盛(これもり)、平忠度(ただのり)、平盛俊らの七万余騎、能登(のと、石川県北部)国の志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に搦手(からめて)の平通盛(みちもり)、平知度(とものり)らの三万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。
④ 義仲軍の布陣
 五月十一日、義仲は源行家(みなもとのゆきいえ)、楯親忠(たてちかただ)の兵を志雄山へ向け、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王の一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた(『源平盛衰記』)。
⑤ 夜間奇襲
 平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立て攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光が押さえていた。大混乱に陥った平家軍七万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れたが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍十万余騎の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰ろうとした。
⑥ 火牛の計
 『源平盛衰記』には、「義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つ」という場面がある。しかし、この戦術が実際に使われたか疑問視する意見が多い。眼前に松明の炎を付きつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進するとは考えにくい。
⑦ 元祖「火牛の計」
 話のもとは、中国の戦国時代の斉(せい)国の武将・田単(でんたん)が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代に脚色したものという。
 この元祖「火牛の計」は、牛の角には刀の刃を上に向けて結び、尾には葦(あし)を結び付けて点火し、その牛を敵軍に追いやるというものである。
⑧ 埴生八幡(はにゅうはちまん)
 『平家物語』には、この合戦の前に、埴生八幡(はにゅうはちまん)に義仲は覚明に願文を書かせて、十三本の上矢と願文を奉納し戦勝祈願したところ、山鳩三羽か゛飛来し、源氏の白旗の上にひらひらと舞ったという。これは昔の神功皇后や源頼義の例によれば吉例である。

 

葵(あおい)塚

 

 (富山県小矢部市蓮沼) 

 

 葵がこの地で没したという。

十二、実盛を討つ・篠原合戦
 
① 概要
 篠原合戦(しのはらかっせん)は、寿永二年(一一八三年)六月、加賀(石川県)国篠原(加賀市旧篠原村)において木曽義仲軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。この時、義仲の命の恩人、斎藤実盛(さねもり)を手塚光盛(てづかみつもり)が討ち取るという事があった。この合戦に大勝した木曽義仲は京へ向けて進撃を開始し、七月に念願の上洛を果たした。
② 篠原合戦
 倶利伽羅峠の合戦での敗北により、平維盛の平氏軍は京へ北陸道を敗走した。木曽義仲軍はすぐに追撃し、加賀の篠原で平氏軍を捉えた。敗走中に追撃を受けた平氏軍はほとんど交戦能力を失い義仲軍が圧勝した。平氏側は甲冑を付けた武士はわずか四・五騎でその他は過半数が死傷、残った者は武具を捨ては山林などに逃亡したが、ことごとく討ち取られた。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(藤原忠清の子)らは一人の従者も無く逃げた。この三人の侍大将と、大将軍(平維盛)の間で権威を争っている間に敗北したという(『玉葉』)。
③ 斎藤実盛
 倶利伽羅峠から退却した平家軍は篠原で態勢を立て直し反撃した。しかし、またも敗退した。この時、義仲の命の恩人、斎藤実盛(さねもり)を手塚光盛(てづかみつもり)が討ち取るという事があった。
 『源』「実盛(さねもり)」には、平氏軍の老将斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中、最後尾の守備を引き受け、奮戦した様子が描かれ、実盛がかって義仲の父源義賢が大蔵合戦で討たれた際に、幼い義仲を木曾へ逃がした恩人であった事が語られている。
④ 平家軍帰京
 この後、敗れた平家軍は出陣した時の半数となって六月六日に帰京し、義仲は十日には越前(えちぜん、福井県)、さらに十三日には近江(おうみ、滋賀県)へ入った。義仲軍の近江到着の報が京に届いた頃、鎮西(ちんぜい、九州)の反乱を鎮圧した平家の家人平貞能(さだよし)が帰京し、数万騎の援軍を期待されていたが、実際には千騎程度で人々を落胆させた。
⑤ 延暦寺対策
 義仲は六月に都への最後の関門である延暦寺と交渉し、七月に入京を果たした。
比叡山延暦寺には数千の僧兵(寺の警備兵)がいた。その武力や威力には白河上皇が「意のままにならぬものは、すごろくのさいころと賀茂川の水と山法師(延暦寺の僧兵)である」と嘆かれたほどである。清盛も対策に頭を痛めた。
⑥ 覚明の計略
 義仲はその対策を覚明にまかせた。当時の延暦寺などでは、僧兵も平氏の味方、源氏の味方、中間派と別れていた。覚明は京都に住んでいた事があり、寺の僧兵の状況に通じており「義仲軍に味方せよ」という手紙を送りつけた。「義仲軍は連戦連勝で強いが、神仏の加護のおかげである。源氏に味方せよ。悪徒の平氏に味方するなら、合戦となる。合戦となれば比叡山は滅亡するかもしれない」という脅しを含めた内容である。
 当時の延暦寺などでは、重要事項は数千の衆徒(僧兵)が全体会議により決定するものであり、その決定には上層部も反対は出来なかった。現代の民主主義のような制度である。長い議論の末、義仲に味方と決まった(『平家物語』)。
⑦ 平家軍退却
 七月二十二日には延暦寺の僧綱(そうごう)が下山して、木曾義仲軍が東塔(とうとう)惣持院(そうじいん)に城郭を構えたことを伝えた(『吉記』)。
 大軍を失った平家軍はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を連れて京から西国へ退却した。後白河法皇は退却の前日の夜に運良く察知して逃げ出し、比叡山延暦寺に着いた。

十三、平家軍・退却の混乱

 

① 概要
 平家軍は反平家の軍勢が増えてきたので、西国での再起を期待して、七月二十五日、平家屋敷へ放火し西国へ、安徳天皇のみ連れて京都から退却した。後白河法皇は前日の夜に運良く察知して比叡山延暦寺に逃れた。
② 義仲軍入京前の混乱
 『平家物語』により木曽義仲軍のみが乱暴を働いたと誤解されているが、その頃、京都の治安維持、警察は平家軍が担当していた。義仲軍の入京前に、平家軍が退却したので、無警察状態となり、市民や僧兵の放火や略奪の混乱状態となった。この治安維持、警察を近くに来ていた義仲軍に期待した(『吉記』『玉葉』)。
 平家軍は平家屋敷に放火して退却したので、京都中の泥棒が集まり火事場泥棒した
と『愚管抄』に記述されている。
③ 平家軍西国に退却
 寿永二年四月、平氏が総力を結集して送り込んだ義仲追討軍は五月の倶利伽羅峠の戦いで壊滅し、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。義仲軍に味方する武士が増加した。七月二十二日には木曾義仲軍が延暦寺の東塔惣持院に城郭を構えた(『玉葉』)。
 七月二十四日、安徳天皇は法住寺殿に行幸するが、すでに「遷都有るべきの気出来」(『吉記』)という噂が流れており、平氏が後白河法皇・安徳帝を擁して西国に退去する方針は決定していた。
 二十五日未明、後白河法皇は源資時・平知康だけを連れて輿(こし)に乗り法住寺殿を脱出し、鞍馬路・横川を経て比叡山に登り、東塔(とうとう)円融坊(えんゆうぼう)に着御した(『吉記』)。
 後白河法皇の脱出を知った宗盛は六波羅の平家屋敷に火を放ち、安徳天皇・建礼門院(けんれいもんいん、安徳天皇の母)・近衛基通(もとみち、摂政)・平氏一族を引き連れて、慌てふためき駆け出した。
 二十六日には公卿・殿上人が続々と比叡山の後白河法皇の下に集まり、円融坊はさながら法皇の御所の様相を呈した。
 二十七日、後白河法皇は錦部冠者(山本義経の子)と悪僧・珍慶を前駆(ぜんく)として下山し、蓮華王院(三十三間堂)に入った(『吉記』)。
④ 義仲軍無血入京
 七月二十八日(太陽暦八月十七日)、義仲軍は平家軍が退却した跡へ、義仲は北、行家は南から、戦うことなく、流血無しで入京した(『玉葉』)。
 『平家物語』には「二十八日、法皇都へ還御なる。木曽五万余騎似て守護し奉る。近江源氏山本の冠者義高、白旗さして先陣に候」とあるが、実際は『吉記』『玉葉』の記述と異なる。
⑤ 義仲、行家の服装
 法皇へ拝謁の時の服装が『平家物語』と『吉記』でかなり異なる例を見よう。
 義仲の服装は、『吉記』には「木曽冠者義仲、年は三十才余、故義賢の息子、錦の直垂(ひたたれ)を着用し、黒革威(くろかわおどし)の甲(こう)、石打(いしうち)の矢を負い、折烏帽子(おりえぼし)を冠る。小舎人(ことねり)童(わらわ)取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)で、帯剣し、また替矢を背負い、油単を履く」となっている。
 『平家物語』には「木曽は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)威(おど)しの鎧着て、いか物作りの太刀を帯き、切羽(きりふ)の矢負い、滋藤(しげとう)の弓脇に挟み、甲(かぶと)をば脱いで高紐(たかひも)に懸けて候」となっている。
⑥ 行家の服装は、『吉記』には「十郎蔵人行家、年は四十才余、故為義の末子、紺の直垂を着用し、宇須部(うすべ)の矢を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子(たてえぼし)を冠る。小舎人童上髪、替矢を背負う」となっている。
 『平家物語』には「十郎蔵人、紺地の錦の直垂に、火威(ひおどし)の鎧着て、こがね造りの太刀を帯き、大中黒の矢負い、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓脇に挟み、甲(かぶと)を脱いで高紐に懸け」となっている。
 『吉記』は法皇へ拝謁の時、その場にいた吉田経房の記述であり、『平家物語』は見て来たかのような表現だが、かなり異なる事がわかる。『平家物語』の作者は謁見の場にいた人から聞いたが、見間違いか、聞き違いがある。
⑦ 何故、北陸からの入京
 義仲軍は何故、信濃から距離的には美濃・東海道方面からのほうが近いのに、北陸道から京都を目指したのか。これは偶然ながら、北信濃へ北国の越後の城氏軍が侵攻してきたため、これに防戦した結果、運良く勝利し越後も制圧した。すると北陸の武将が義仲の味方に付いてしまった。これに対して平家軍が北陸道へ義仲追討軍を派遣した。これにも運良く勝利し、さらに勢いに乗り、京都まで駆け上がってしまった。頼朝より先に入京し、北陸宮を天皇にすれば、頼朝より優位に立てると考えていた。
⑧ 頼朝の逆転勝利
 頼朝は計略を練り、義仲は頼朝の代官として派遣したと思わせ、さらに十月宣旨により、東海道、東山道諸国の支配権を得て、逆転に成功した。

十四、義仲は京中守護

 

① 概要
 平家軍の退却により京都市内は無警察状態となり、平家軍残党や市民や僧兵の放火や略奪の混乱が生じた。朝廷は、その鎮圧を木曽義仲軍に期待し、木曽義仲を京中守護に任命した。
② 平氏は賊軍に転落
 七月二十八日、公卿議定が開かれ、平氏追討・安徳天皇の帰京・神器の返還が議論された。中山忠親・藤原長方は追討よりも神器の返還を優先すべきと主張したが、木曾義仲・源行家軍が都を占拠しており、天皇・神器の回復の目処も立たないことから、「前内大臣(平宗盛)が幼主(安徳天皇)を具し奉り、神鏡剣璽(けんじ)を持ち去った」として平氏追討宣旨を下した(『玉葉』『吉記』)。ここに平氏は賊軍となり、義仲軍が官軍として京都を守護することになった。
 後白河法皇は木曾義仲に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。
③ 義仲を京中守護
 平家軍の退却により京都市内は無警察状態となり、平家軍残党や市民や僧兵の放火や略奪の混乱がおきた。その鎮圧を木曽義仲軍に期待し、七月三十日、朝廷は木曽義仲を京中守護に任命した。義仲以外にも同時に入京した京都近国の有力な武将も分担した。
 次のように信濃、甲斐、美濃、尾張、近江など京都近辺の源氏の武将が多い。これまで反平家の活動をしたり、京都の地理に詳しい大部隊の武将が選ばれた。
・源三位入道子息・・・源頼政の孫、右衛門尉(うえもんのじょう)有綱。
・高田四郎重家・・・尾張源氏、尾張(おわり、愛知県西部)国の住人。
・泉次郎重忠・・・尾張源氏、尾張国の住人。
・出羽判官光長・・・美濃(みの、岐阜県南部)源氏、検非違使(けびいし)、伯耆(ほうき、鳥取西部)の守。
・保田三郎義定・・・甲斐源氏、遠江(とおとうみ、静岡西部)守。
・村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助(うまのすけ)。
・葦敷太郎重隆・・・尾張源氏、尾張の国の住人。佐渡の守。
・十郎蔵人行家・・・備前(岡山南東部)の守。
・山本兵衛尉義経・・・近江(おうみ、滋賀県)源氏、伊賀(いが)の守、若狭(わかさ)の守
・甲賀入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏。山本兵衛尉義経の弟。柏木義兼。
・仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉(さえもんのじょう)。
などの名前がある(『吉記』)。
④ 木曽義仲への論功行賞
 木曽義仲の入京直後に行われた朝廷の論功行賞(ろんこうこうしょう)では、事前の頼朝による政治交渉が功を奏し、勲功の第一は頼朝、第二が義仲、第三が源行家とされた。
 義仲が受領(従五位下、左馬頭、越後守)任官を果たした。義仲はそれまで無位無官だった。源行家は備後守とされた。後に行家が不満を示したので、義仲は伊予の守、行家は備前の守に変更された(『玉葉』)、安田三郎義定は遠江(とおとうみ)守、山本兵衛尉義経は伊賀(いが)守、土岐(出羽判官)光長は伯耆(ほうき)守などに任ぜられた。その他、右衛門尉(うえもんのじょう)や左衛門尉(さえもんのじょう)。右馬助(うまのすけ)などに任ぜられた。
・受領(ずりょう)・・・現地に赴任して行政責任を負う筆頭者。
・任官(にんかん)・・・官職に任用されることをいう。
・従五位下(じゅごいのげ)・・・上級貴族の子は最初に受ける官位。
・左馬頭(さまのかみ)・・・馬の生育、訓練をする役所・左馬寮の長官。当時の武士にとり最高に名誉な職務。以前、源義朝も任命された。
・越後守(えちごのかみ)・・・越後(えちご、新潟県)の国主。
・伊予守(いよのかみ)・・・伊予(いよ、愛媛県(えひめけん))の国主。当時の武士にとり最高に名誉な国守の職務。後に源義経も任命された。
・備後守(びんごのかみ)・・・備後(びんご、広島県東部)の国主。
・備前守(びぜんのかみ)・・・備前(びぜん、岡山県東南部)の国主。
・遠江守(とおとうみのかみ)・・・遠江(とおとうみ、静岡西部)の国主。安田三郎義定は、すでに実効支配している。
・伊賀守(いがのかみ)・・・伊賀(いが、三重県西部)の国主。
・伯耆守(ほうきのかみ)・・・伯耆(ほうき、鳥取西部)の国主。
・右衛門尉(うえもんのじょう) ・・・右衛門府(御所の警備役所)の第三等官。
・左衛門尉(さえもんのじょう)。・・・左衛門府(御所の警備役所)の第三等官。
・右馬助(うまのすけ)・・・右馬寮(うめりょう)の次官。

⑤ 平氏一門を解官
 後白河法皇にとって平氏が安徳天皇を連れて逃げたのは不幸中の幸いであり、八月六日に平氏一門・党類の二百余人を解官すると(『玉葉』)、十六日には天皇不在の中で院殿上除目(じもく、人事異動)を行い、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んだ。
⑥ 木曽義仲軍が乱暴の真相
 『平家物語』や『玉葉』には木曽義仲軍が乱暴の記述がある。その一部を読んだのみで、木曽義仲軍のみが乱暴を働いたと誤解する人は多い。しかし、『平家物語』にも平家軍や源氏軍が兵糧調達のため乱暴した記述がある。『吉記』には僧兵や市民の放火や略奪の様子が記述されている。
 『愚管抄』には「平家軍が京都から退却したとき平家屋敷に放火したが、その後、物取りが発生した、いわゆる火事場泥棒の記述がある。また「木曽義仲軍の入京前には物取りや互いに略奪などの記述がある」が、「木曽義仲軍の入京後には略奪などの記述は無い」。 (『朝日将軍木曽義仲洛中日記』)
 歴史小説家は何故かここはパスする。要するに、乱暴狼藉は義仲軍のみがしたと強調したいようだ。実は平家軍も頼朝軍も市民も僧兵も乱暴狼藉したのだ。
⑦ 乱暴狼藉事件の真犯人
 「乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である」。こんなことは小説家や学者は書けない。京都市民の反発をおそれているようだ(『朝日将軍木曽義仲洛中日記』)。
⑧ 治安回復
 義仲に期待された役割は、平氏追討よりも京中の治安回復だったが、九月になっても略奪が横行していたようだ。『玉葉』九月五日(太陽暦九月二十三日)には「ある人言う。凡そ近日の天下は武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去るという。四方は皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られてしまった。田んぼ残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕(ついぶ、強制取り立て)した。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取りました」と記述している。しかし、九月六日以後には乱暴の記述が無い。
 義仲軍が入京した七月二十八日(太陽暦八月十七日)ころは米の収穫前で、食糧が不足していた。九月五日(太陽暦九月二十三日)頃には米の収穫・供給が始まり、掠奪が少なくなり治安が回復したようだ。

十五、後鳥羽天皇即位

 

① 概要
 天皇擁立を巡る対立である。後白河法皇は平家のほぼ全員の官職を解いた(クビにした)。しかし、平時忠らの官職は解かずに安徳天皇と三種の神器の返還を求めたが、交渉は不調だった(『玉葉』)。
 そこで都に残った高倉上皇の皇子二人の中から新天皇を擁立することを決めた。ここで義仲は以仁王の子・北陸宮の即位を主張した。
② 北陸宮即位ならず
 義仲は以仁王の子息・北陸宮の即位を主張した。しかし兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』)と言うように、この介入は治天の君(ちてんのきみ、政務の実権を握った上皇)の権限の侵犯だった。
 後白河法皇は義仲の異議を抑えるために御占いを行い、四宮(尊成(たかなり)親王、後の後鳥羽天皇)が最吉とした。義仲は「故三条宮(以仁王)の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨(いこん)」と不満を表明した(『玉葉』)。
③ 後鳥羽天皇即位
 八月二十日、後鳥羽(ごとば)天皇が践祚(せんそ)する。剣璽(けんじ)のない異例の践祚だったが、左大臣の藤原経宗(つねむね)が式次第を作成して儀式は無事に行われた。これで日本国に平家軍がお連れした安徳天皇と京の天皇が二人いる事になった。
・ 践祚(せんそ)・・・皇位を継承すること。
・ 剣璽(けんじ)・・・天子の象徴としての剣と印章。または三種の神器のうち、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)または三種の神器の総称。
 この後鳥羽天皇は約四十年後、承久の乱を引き起こす事になる。
④ 義仲に平家没官領
 後白河法皇は義仲の態度に憤ったが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領百四十余箇所を与えた(『平家物語』)。
⑤ 後白河法皇の計略
 とりあえず後鳥羽天皇の即位はしたが、この後また、義仲は北陸宮の推挙を持ち出すかも知れない。頼朝は天皇の後継については何も言わない。義仲軍団はまとまりが無く、頼朝軍団はまとまりがあるようだ。頼朝を上洛させて義仲は追い出してしまおう。頼朝と後白河法皇の利害の思惑が一致した。

十六、イケメンの義仲(猫おろし事件)

 

① 概要
 猫間中納言・藤原光隆が義仲の屋敷を訪問した時に食事を勧めたが、ほとんど残してしまったので、「猫おろしをした」と言って、からかったという作り話である。
② 習慣や文化の違い
 これは義仲の信濃の武士の生活の常識と京都の公卿の習慣や文化の違いによるものである。自分の住んでいる地域の習慣が当然で、他の地域の習慣を奇異に感ずる人が多い。最近、日本への外国からの観光客が増え、マナーが悪いと話題になるが、日本の常識は外国の非常識、外国の常識は日本の非常識という事である。礼儀作法、習慣が地域により異なり、どれが絶対良いとは言えないものである。
 京都の貴族から見れば、京都郊外でも片田舎である。まして東国や北陸など遠い異国とも思える田舎と見下している。
③ 食習慣の違い
 その頃の貴族は朝夕の一日二食の白米食で、現代の会席料理のような多品種少量で肉類は食べなかった。武士は一日三食の玄米食であり、合戦の時は一日五食となった。一汁二菜程度の質素なものだが肉類でも何でも食べた。また信濃では客に飲食をしつこく勧めるのが常である。
④ 猫間殿
 猫間殿とは猫間地区に住む中納言・藤原光隆であり、以前の越後国守であった。内乱により年貢が届いていない。反乱軍の実質支配者の義仲に相談、要請にきたのだろう。食事を勧めたがほとんど残してしまった。これを「猫おろし」をしたとからかった。なにも話が出来ず帰ってしまった。案外それが目的だったか。
⑤ 義仲の容貌
 『延慶本』には「木曽義仲は、みめ形きよげにてよき男にて」とある。
『平家物語』の作者は義仲挙兵から京都までは好意的だが、中立的に描写されている。京都における義仲の描写は乱暴者、田舎者、武骨者として見下した公家の関係者が書いている。義仲最期は義仲に同情的な人が書いている。
 義仲を乱暴者、田舎者、武骨者として見下している者ですら、義仲の容貌についてはほめているので、かなり良い風貌であったといえる。(参照『朝日将軍木曽義仲洛中日記』)
⑥ 『平家物語』的ジョーク
 『平家物語』には時々、ダジャレが出て来る。『平家物語』は長編である。時々はジョークを入れないと、聴衆は飽きるだろう。
 猫間中納言・藤原光隆を「何、猫が来たと」。猫間殿を猫と呼んだ。
 法住寺合戦の前に法皇の使者として平知康(たいらともやす)が来た。「鼓判官(つづみほうがん)とは、大勢の人に打たれたか」と鼓判官・平知康(たいらともやす)をからかった。実際の使者は鼓判官・平知康ではなかった。
「伊勢平氏はすがめなりけり」。忠盛(清盛の父)が伊勢平氏で、伊勢産の瓶子(へいし)は粗末な酢瓶(すがめ)にしか使えない。また忠盛が斜視(すがめ)だった。
「黑き頭かな、いかなる人の漆塗りけん」。色黒の蔵人頭(くろうどのとう、蔵人所の次官)をからかった。
「へいしが倒れた」瓶子(酒器)が倒れたのを平氏が倒れたとはやした。鹿ケ谷事件の始まりとなった。
⑦ 松茸とひらたけ
 きのこはひらたけが出てくる。まつたけはこの頃はあまり人気がなかったようだ。室町時代から人気が出たようだ。松茸を好むのは日本人のみである。日本人以外は好まない。特に中国人は松茸は変な臭いのするキノコに分類して食べない。最近、韓国人が食べるようになったらしい。
⑧ 牛車(ぎっしゃ)事件
 義仲の牛車の乗り方が可笑しいとからかう話がある。武士が馬の乗り方が可笑しいなら問題だが、牛車の乗り方など何の問題もない。これは『今昔物語』のなかに牛車に乗ってみた武士が苦労する話がある。この真似だろう。
 要するに、新参者の義仲や義仲軍は礼儀知らずの田舎者、乱暴者と見下したいのだろう。

十七、皆既日食で敗退した水島合戦

 

① 概要
 水島の合戦(みずしまのかっせん)は、平安時代末期、治承・寿永の乱の合戦の一つである。
 寿永二年(一一八三年)閏(うるう)十月一日、備中国水島(岡山県倉敷市玉島)において木曽義仲軍と平氏軍との間で行われ、それまで連戦連勝だった義仲軍が負けた。この合戦の最中に九十五パーセントほど欠けた金環食が起こった。
・閏(うるう)月・・・当時の太陰暦(たいいんれき)は一ケ月が二十九日と三十日だったので、三年に一回閏月(うるうづき)を入れて補正していた。
② 義仲出陣
 木曾義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だった。九月になるとようやく治安が回復した。後白河法皇は九月十九日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」とし、後白河法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上した(『玉葉』)。
③ 水島の合戦
 当時、平氏軍の拠点は讃岐(さぬき、香川県)の屋島(やしま)にあった。平氏を追討するため、九月二十日に木曽義仲軍七千余騎は、都を出発して屋島方面へ進軍したが、閏十月一日、四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。木曽義仲軍を率いたのは、義仲部将の大将には足利義清・侍大将には海野幸広である(『平家物語』)。
④ 義仲軍敗退
 平氏軍は、千余艘の軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源氏軍は、五百余艘の軍船を用意した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を抜いて、今にも戦を始めようという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。
 最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信、仁科といった諸将を失い壊滅、京都へ敗退した(『平家物語』)。
  海上の船の合戦に慣れた平氏軍に対し、せいぜい川の渡し舟に乗った事がある程度の木曽義仲軍では勝ち目は少ない。義仲軍の不敗神話が消え、義仲軍の味方から離れる者が多くなった。
⑤ 日食
 この合戦の最中に九十五パーセントほど欠けた金環食が起こったことが、『源平盛衰記』等の資料によって確認されている。
 当時、平氏は公家として天文や暦の担当者(暦博士)がいたか、日食が起こることを伝えられていて、それを戦闘に利用したとの説がある。右大臣の兼実にも暦博士から伝えられており、約四時間の誤差があった(『玉葉』)。当時、日食などは不吉と考えられ、一部の上級貴族のみに知らせた。
⑥ 平氏軍は勢力を回復
 この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津(せっつ、兵庫県)福原まで戻り、一ノ谷の合戦に備えた。

十八、福隆寺縄手(ふくりゅうじなわて)の戦い

 

① 概要
 福隆寺縄手(ふくりゅうじなわて)の戦いは、平安時代末期の寿永二年(一一八三年)十月、備前(びぜん、岡山県南東部)国・福隆寺縄手(現岡山市北区)で起こった木曾義仲軍と平氏方武将の妹尾兼康(せのお かねやす)の戦い。『平家物語』の「瀬尾最期」に平家忠臣の最期として描かれる。
 妹尾兼康は平家譜代(ふだい)の家人(けにん)であり、保元・平治の乱では平家軍に属して戦い、鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀でも平清盛の手足となって働いた腹心である。
② 倶利伽羅峠で捕虜に
 兼康は寿永二年(一一八三年)四月の平氏による北陸の義仲追討軍に従うが、五月の倶利伽羅峠の戦いで平氏軍は大敗し、兼康は義仲方の武将倉光成澄に捕らえられた。義仲は兼康の武勇を惜しんで助命し、身柄を成澄の弟倉光成氏に預けた。兼康は義仲に従いながら、反撃の機会を伺っていた。
③ 西国で反旗
 同年七月に平家一門は都を落ち、兼康は十月に平家を追討すべく西国へ向かう義仲軍に従った。水島の戦いで義仲軍が敗れた後、義仲は一万騎を率いて西国へ向かう。 
 兼康は自領である備前国妹尾荘に案内すると倉光成氏を誘い出して殺害した。出迎えた嫡子妹尾宗康や備前・備中・備後三ヶ国で現地に残っていた平家方の武士たちをかき集め、軍勢二千余人をもって福隆寺縄手の笹の迫(ささのせまり、笹が瀬川の流域、坊主山と鳥山の間の津島笹が瀬付近)に要塞を構え、木曾軍に反旗を翻した。
④ 兼康討ち死に
 木曾軍の今井四郎の三千余騎の猛攻に、妹尾兼康方は激しく抵抗するが、寄せ集めの勢であり、木曾の大軍の前に城郭は攻め落とされた。妹尾兼康は落ち延びようとするが、取り残された子の宗康を助けるために引き返し、今井兼平の軍勢に突入して討ち死にした。義仲は備中国鷺(さぎ)が森にかけられた兼康主従三人の首を見て、その武勇を惜しんだ(『平家物語』)。

十九、十月宣旨で頼朝優位に

 

① 概要
 寿永(じゅえい)二年十月宣旨(せんじ)は、寿永二年(一一八三年)十月に朝廷から源頼朝に下された、頼朝に東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させ、頼朝に東国支配権を公認した宣旨(天皇の命令)である。寿永の宣旨ともいう。
 この十月宣旨と水島合戦の敗退により、義仲に味方していた武士でも、義仲から離反し頼朝に従う武士が増加し、頼朝が優位になった。
 後白河法皇は義仲を牽制するため、頼朝に強大な権限を与えたが、義仲、平家、奥州藤原氏が滅び、頼朝の勢力が大きくなり過ぎ、朝廷の権力が弱体化した。
② 頼朝の計略
 頼朝は計略家である。権謀術数に優れた政治家である。木曽義仲軍の入京前から後白河法皇に連絡をとり、木曽義仲を頼朝の代官として派遣したとした。木曽義仲の入京直後に行われた朝廷の論功行賞では、頼朝による事前の政治交渉が功を奏し、平家追討の今回の勲功の第一は頼朝、第二が義仲、第三が行家とされた(『玉葉』)。
 義仲入京後も東海道、東山道、北陸道の諸国の支配を認めれば年貢を取り立てて送ると手紙を送り、東海道、東山道の諸国の支配を認める十月宣旨を出させた。
③ 朝廷(後白河法皇)の課題
 この時期の朝廷の問題は、官物・年貢の確保である。諸国の荘園・公領から朝廷・諸権門への年貢運上は内乱により、ほとんど見込めない。
④ 頼朝の不安
 頼朝にも不安がある。常陸(ひたち、茨城)の志田義広が反頼朝の兵を挙げ、頼朝はこの反乱を鎮圧したが、北関東の情勢は頼朝にとって非常に不安であった。その後、志田義広は義仲と連携し、源行家も義仲と連携した。夏になり、義仲軍が北陸で平氏軍に連戦連勝し、以仁王遺児の北陸宮を奉じて、近江源氏の山本義経、美濃源氏の山田重澄だけでなく、頼朝と連携して遠江にいた甲斐源氏の安田義定も義仲のもとへ合流し上洛した。この時、義仲の権威と名声は頼朝を上回った。
⑤ 東国独立論
 また頼朝政権内部には、平広常ら有力関東武士層には東国独立論が根強く、頼朝を中心とする朝廷との協調路線との対立があった。前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとする。後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る。
⑥ 頼朝の三か条
 物資の確保を狙う後白河法皇と、義仲に優越しようとする頼朝側との間で、頼朝は三か条の案を示した。一、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」、二、「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」、三、「降伏者は斬罪にしない」とするものである(『玉葉』)。
⑦ 頼朝の復権
 十月九日、後白河法皇は頼朝を本位に復して赦免した。頼朝は平治の乱の配流前の官位である従五位下(じゅごいのげ)右兵衛(うひょうえ)権佐(ごんのすけ)に叙せられ、謀叛人から回復し、頼朝は王権擁護者の地位を得た(『玉葉』)。
⑧ 寿永二年十月宣旨
 十月十四日、後白河法皇は頼朝に寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えた。ただし、後白河法皇は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』)。高階(たかしな)泰経(やすつね)が「頼朝は恐るべしと雖(いえど)も遠境にあり。義仲は当時京にあり」(『玉葉』)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定する事は出来ない。
 宣旨には、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を回復させる、それに不服の者は頼朝へ連絡し沙汰させる、という二つの内容を有していた。前段は朝廷側の要求の実現であり、後段は頼朝側の要請が承認された。
⑨ 義仲対策
 頼朝は、義仲に対する優越を確実にするため、宣旨の対象地域に北陸道を加えるよう朝廷へ要請した。この頃、義仲は西走した平氏追討のため、十月初頭から播磨(はりま、兵庫県西南部)へ出陣しており、京に不在であったが、義仲を恐れた朝廷は北陸道を宣旨から除外した。頼朝と義仲を対立させる後白河法皇の政治的意図がある。
 これに対して三ヵ条の回答の冒頭に、京攻めについて神仏の功徳のみを述べて義仲の功績を全否定して、頼朝の要請した対象地域には現在義仲が軍事的に占領している全地域すなわち京都を含めた京都近国一帯も含まれていたが、北陸道の除外によって京都近国も当然除外されたとする。
⑩ 頼朝の成果
 十月宣旨による頼朝の成果は、東国行政権と王権擁護者の地位である。十月宣旨を獲得した頼朝政権は朝廷協調の路線の度合いを強めた。それまで頼朝は、朝廷が使用していた寿永年号を拒み、治承年号を使用し続けていたが、宣旨発布の前後から寿永年号を使用し始めた。
 その一方で、鎌倉政権内の東国独立派は後退した。東国独立を強く主張していた平広常が同年十二月に暗殺された。頼朝政権の路線確定を表すものとされる。
⑪ 義仲討伐軍出発
 頼朝は宣旨施行のためと称して、源義経・源範頼ら率いる軍を京方面へ派遣した。義経軍は十一月中旬までに伊勢へ到達した。

二十、法皇へ反撃した法住寺合戦

 

① 概要
 法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永二年十一月、木曾義仲が後白河法皇の御所・法住寺殿を攻撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇を隔離、政権を掌握した。朝廷に弓を引いた事に反発して、義仲から離れる武士が多くなった。『平家物語』によれば、法住寺殿に二万人余、義仲軍六・七千騎とあるが、多分、法皇側二千人と義仲軍六百騎の戦いである。
② 義仲の帰京
 義仲は西国で苦戦を続けていた。閏(うるう)十月一日の水島合戦では平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失ない、戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛という情報が入った(『玉葉』)。
 義仲は平氏との戦を切り上げ、閏十月十五日に少数の軍勢で帰京した。義仲の帰京に慌てた後白河法皇の周辺では、義仲を宥めようという動きが見られた。
③ 義仲の抗議、生涯の遺恨
 十月宣旨の発布を知った義仲は怒り、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、一、頼朝の上洛を促した事、二、頼朝に寿永二年十月宣旨を下した事を挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河法皇に抗議をした(『玉葉』)。
 義仲は、頼朝追討の宣旨または御教書(みぎょうしょ)の発給(『玉葉』)、志田義広の平氏追討使への起用を要求したが、後白河法皇は認めなかった。
 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わった。十月十九日の源氏一族の会合では後白河法皇を奉じて関東に出陣する案が、行家、源光長の猛反対で潰れ、二十六日には興福(こうふく)寺の衆徒(しゅと、僧兵)に頼朝討伐の命が下された(『玉葉』)。しかし、衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった(『玉葉』)。
④ 使者
 『平家物語』には、使者は鼓(つづみ)判官の平知康(ともやす)となっているが、『玉葉』によると、静賢(じょうけん)法印(ほういん)や主典代(しゅてんだい)大江景宗などである。
・ 法印(ほういん)・・・僧侶の位の一。
・ 主典代(しゅてんだい)・・・院の庁で出納をつかさどる官。
⑤ 決裂
 十一月四日、源義経の軍が不破の関(ふわのせき、岐阜県関ケ原)に達した。義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をした。七日になって義仲を除く行家以下の源氏諸将が院御所の警護を始めた。頼朝軍の入京間近の報に力を得た院周辺では、融和派より主戦派が台頭した
 十一月八日、院側の武力の中心である行家が、重大な局面にも関わらず平氏追討のために二百七十騎を率いて京を離れた。後白河法皇と義仲の間には緊迫した空気が流れ、義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示した(『玉葉』)。
⑥ 合戦前夜
 十六日になると、後白河法皇は延暦寺や園城寺の僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。
 摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが法皇の味方となり、優位に立ったと考えた後白河法皇は義仲に対して最後通告を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に留まるなら、謀反と認める」という、義仲に厳しいものだった(『玉葉』)。
 これに義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。
 兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない。京中の征伐は、古来より聞かない。義仲の勢は僅かといえども勇なり。義仲の軍勢は多くは無いといえども、その集団は、おおいに勇敢であるという。」と法皇を非難している(『玉葉』)。
 十七日夜には八条院(後白河法皇の異母妹)が法住寺殿を去った。十八日には上西門院(後白河法皇の妹)と、亮子内親王(後白河法皇の第一皇女)が法住寺殿を去り、北陸宮もどこかへ逃げ出した。入れ替わるように後鳥羽天皇、守覚法親王(後白河天皇の皇子)、円恵法親王(後白河天皇の皇子)、天台座主・明雲が御所に入った。義仲への武力攻撃の決意を固めた。
⑦ 御所攻撃
 十九日午の刻(午後○時頃)、九条兼実は『玉葉』に、「黒煙を天に見た。これは河原の在家を焼き払うという」。申(さる)の刻(午後四時頃)になって入った情報は「官軍は悉く敗績し、法皇を取り奉りました。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政(せっしょう、藤原基通)の屋敷に、お連れした」というもので、兼実は「夢か夢にあらざるか。万事覚えず」とした。法住寺合戦の後、「義仲は不徳の君(後白河法皇)」を戒める天の使い」と記述している。
 この合戦により天台座主・明雲や円恵法親王が戦死した。兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」(『玉葉』)と嘆いた。『愚管抄』に「義仲は天台座主・明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てさせた」という。その他、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死した。
 吉田経房の『吉記』は「後に聞く」として「御所の四面、皆悉く放火、其の煙は偏に御所中に充満した。万人が迷惑した、義仲軍は所々より破り入り、敵対する事が出来ない。法皇を御輿に乗せ、東を指して脱出された。参会の公卿は十余人、或いは馬に乗り、或いは腹ばいで四方へ逃走した。雲客(殿上人)以下其の数を知らず。女房等多く以て裸形だった」と戦場の混乱を記している。
⑧ 御所は焼け落ちたか
 御所は焼け落ちたという説明が多いが、『玉葉』『吉記』『愚管抄』に御所の消失の記述は無い。『平家物語』でも今井四郎が火矢を放ったという記述のみで、御所が焼け落ちたという記述は無い。『玉葉』によれば河原の民家が燃えた。『吉記』によれば周囲の民家に放火した。
 『吾妻鏡』には、後の文治元年の地震により御所が傾いたので、頼朝の命令で修理をしたとの記述があるので、御所は焼け落ちたという事実は無い。
 治承四年十二月、平家軍が奈良を攻撃した時、東大寺や興福寺が焼け落ちたのを混同しているか、同様なひどい事をしたと誤解させる目的だろう。
 (参照 『朝日将軍木曽義仲洛中日記』)
⑨ 院御所の攻撃の意義
 院御所の攻撃は平治の乱の前例があるが、藤原信頼(のぶより)の目的はあくまで信西(しんぜい)一派の逮捕だった。今回の攻撃は法皇自らが戦意を持って兵を集め、義仲もまた法皇を攻撃対象とし、院を守護する官軍が官軍以外の武士により完全に負けたと言う点でかってないものであり、約四十年後の承久の乱に先駆けるものである。
⑩ 逆賊扱いの問題
 朝廷に逆らうと逆賊と言われる。頼朝以後の武家政権は、形式としては朝廷から征夷大将軍に任命される。実質的には朝廷に逆らっているので逆賊となる。また現代の憲法の日本も天皇の意見は無視するので逆賊状態となる。

 

二十一、義仲は征東大将軍

 

① 概要
 法住寺合戦に勝利し、天皇と法皇を手中に収めたので、政治権力を得た事になった。新しい政治体制を整えようと、元関白(かんぱく)の松殿基房(もとふさ)と連携した。基房の子・師家(もろいえ)を内大臣・摂政とした。
 頼朝に対抗しようと、院御厩別当(いんのみうまやべっとう)に就任したり、頼朝追討の院庁下文を発給した。俊堯(しゅんぎょう)を天台座主に任命し、比叡山延暦寺を味方につけようとした。征東大将軍に任命された。
 朝廷に弓を引いた事に反発して、義仲の味方から離れる武士が多くなった。
② 師家(もろいえ)を内大臣・摂政
 法住寺合戦戦後、十一月二十日、五条河原で源光長以下百余の首がさらされ、義仲軍は勝ち鬨を挙げた(『吉記』)。
 二十一日、義仲は松殿基房(もとふさ)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」と命じた(『玉葉』)。
 二十二日、基房の子・師家(もろいえ)を内大臣・摂政とした。基房は元関白(かんぱく)だったが、治承三年の政変で、清盛のために解官された。その後、復帰出来なかった。基房は師家の摂政(せっしょう)就任を後白河に懇願して断られた経緯があり(『玉葉』)、今回は義仲と連携して復権を狙った。
③ 基房の娘
 『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる。しかし、『玉葉』『吉記』『愚管』に、これに関する記述は無い。
 二十八日、新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通(もとみち)の家領八十余所を義仲に与える事にした。これについて兼実は「狂乱の世なり」としている(『玉葉』)。同日、中納言・藤原朝方以下四十三人が解官された(『吉記』)。
④ 義仲軍千騎
 七月、入京時、五千騎ほどだった義仲同盟軍も離反が相次ぎ、法住寺合戦戦後、義仲の味方として残ったのは、信濃・上野から引き連れて来た今井・樋口を中心とした直属の軍勢と、頼朝に敵意を持つ志田義広、近江源氏の山本義経など千余騎となった。
⑤ 法皇の処遇
 後白河法皇は五条内裏に軟禁されたが、「歎息(たんそく)の気」は無かったという(『玉葉』)。保元・平治の乱、治承三年のクーデターなどで幽閉、軟禁された事があり、開放の覚えがあるので、頼朝軍に期待し、それほど悲観はしていない。
 五条殿の警備は「近日、日来に陪し、女車に至るまで検知を加ふ」(『玉葉』)という厳重なものだったが、十二月十日、怪異のためという理由で、六条西洞院の平業忠邸に遷された(『吉記』)。
⑥ 院御厩別当(いんのみうまやべっとう)
 十二月一日、義仲は院御厩(いんのみうまや)別当(べっとう、長官)に就任した(『吉記』)。当時の武士にとって左馬頭や院御厩別当は最高の名誉な官職であった。院御厩の馬は儀礼や神事のために諸国から献上される馬だが、軍馬の入手には都合が良い。なお後の十日に、左馬頭を辞退した(『吉記』)。これは左馬頭と院御厩別当を兼務しないという慣例による。
 十二月十日、後白河は義仲の要請により、頼朝追討の院庁下文を発給した。また義仲の推薦により俊堯(しゅんぎょう)を天台座主に任命した(『吉記』)。俊堯は義仲と法皇の仲介に尽力した僧侶である。その功労の意味と比叡山延暦寺を味方に付けようとした。しかし、効果は無く、延暦寺が味方になることは無く、義仲が滅亡後、俊堯は天台座主を解任された。
⑦ 朝日将軍と征夷大将軍
 『平家物語』には「義仲は後白河法皇により朝日将軍に任命された」とある。
 『吾妻鏡』、『源平盛衰記』、『延慶本』には「寿永三年(一一八四年)一月、義仲は征夷(せいい)大将軍に任命された」とある。
 征夷大将軍とは朝廷の支配地域外の敵を追討するものであり、数百年前に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任命された事があった。それ以後任命された事は無かった。
⑧ 征東大将軍
 『玉葉』、『山塊記』には「義仲は征東大将軍に任命された」とある。
 征東大将軍とは朝廷の支配下の東方の敵を追討するものであり、義仲は東国の頼朝を追討する目的であった。(参照 『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』)
⑨ 鎌倉幕府
 一一九二年に頼朝は「征夷大将軍」に任命された。頼朝は鎌倉幕府を開いたとされていたが、最近の学説は一一八五年に「守護」「地頭」の設置が実質的であるとされている。また「幕府」とは江戸時代に命名されたものである。当時は頼朝の政権を鎌倉幕府とは呼んでいない。
⑩ 室山合戦
 室山の戦い(むろやまのたたかい)は、寿永二年(一一八三年)十一月二十九日、播磨国室山(現兵庫県たつの市御津町室津港の背後にある丘陵)に陣を構える平氏軍を、源行家軍が攻撃して敗れた戦いである。
 十一月八日に源行家は西国の平氏追討の任を朝廷から公式に受けて京から出陣した。『玉葉』によると、行家の軍勢はわずか二百七十余騎であり、九条兼実はその軍勢の少なさを不審に思った。
 播磨国室山に陣を構えて平知盛・平重衡率いる平氏軍を攻撃した。五段構えに布陣した平氏軍は、陣を開いて攻め寄せる行家軍を中に進入させて包囲した。行家は郎従百余名を討たれながら大軍を割って逃げ、高砂まで退いたのち、海路で本拠地の和泉国に到着し、河内国へ越えて長野城(大阪府河内長野市、金剛寺領長野荘)へ立て籠もった(『平家物語』「室山」)。
⑪ 平氏との和平工作
 義仲は頼朝との対決がせまったので、平氏との和平工作を始めた。平氏は十一月二十八日には室山合戦で源行家に勝ち、福原に迫った。

 

二十二、多勢に無勢の宇治川合戦

 

① 概要
 宇治川の合戦(うじがわのかっせん)は、平安時代末期の寿永三年(一一八四年)一月に木曽義仲軍と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経軍とで戦われた合戦である。
② 行家討伐
 室山合戦で敗れた源行家は、寿永三年正月十七日に、河内国の長野石川城で反義仲の挙兵をした。義仲は十九日に、樋口兼光を五百余騎の軍勢を付けて討伐に向かわせた。
③ 乱暴な義経軍
 『延慶本』によると「義経は、合戦に邪魔なので、川端の民家を焼き払えと命じた。逃げ遅れた老人・女・病人などが焼け死んだ」という。また後の三草山の合戦では民家に火を付け、松明替わりにした。
④ 義仲軍千騎
 義仲軍は、入洛時には五万余騎(実数は五千余騎)だったが、十月宣旨や水島の合戦の敗北などの状況の悪化により離反が続出して千余騎に激減した。また、義仲は平家との和平交渉や後白河法皇を奉じて北陸道へ下る事も考えたが、義経軍は約千騎という情報が入り、北陸下向を中止して迎え撃つ事にした(『玉葉』)。
 義仲が敵の実勢を把握したのは十五日の夜であり、翌十六日には範頼軍三万余騎が北陸道の入口である近江国の瀬田に兵を進めた。
⑤ 義経軍二万五千余騎
 義仲は四天王の今井兼平に五百余騎で瀬田の唐橋を、根井行親、楯親忠には三百余騎で宇治を守らせ、義仲自身は百余騎で院御所を守護した。一月二十日、範頼は大手軍三万余騎で瀬田を、義経は搦手軍二万五千余騎で宇治を攻撃した。
⑥ 宇治川の先陣争い
 義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れた。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこの時のことである。根井行親、楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破された。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入した。義仲が出陣し、義経軍と激戦となった。義仲は奮戦するが遂に敗れ、後白河法皇を連れて脱出すべく院御所へ向かった。義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功した。後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は今井兼平と合流しようと瀬田へ向かった。
⑦ 義仲と兼平の合流
 瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗北を知り退却、粟津で義仲との合流に成功した。義仲は北陸への脱出をはかるが、これへ範頼の大軍が襲いかかる。義仲軍は奮戦するが次々に討たれ、数騎にまで討ち減らされたところで、遂に義仲が顔面に矢を受けて討ち取られた。今井兼平も義仲を追って自害した(粟津の合戦)。

 

二十三、義仲最期の粟津合戦

 

① 概要
 粟津の合戦(あわづのかっせん)は、寿永三年(一一八四年)一月二十日(太陽暦三月四日)に近江(おうみ、滋賀県)国粟津にて行われた木曽義仲軍と源頼朝派遣の東国諸将との間の合戦である。
 木曽義仲と今井四郎兼平の最期の日は、『平家物語』の諸本には一月二十一日となっているものもあるが、『玉葉』『吾妻鏡』によれば一月二十日である。
② 義仲敗走
 法住寺合戦後、源頼朝は弟の範頼・義経以下、指揮下の東国諸将に義仲討伐を命じた。宇治川の合戦などで敗れた義仲は後白河法皇を連れて京都を脱出しようと図るが、六条河原の合戦で再度敗れて、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地の北陸への逃走を試みた。
③ 義仲最期
 ところが近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍六千余騎と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍三百余騎は潰滅し、多くの者が討たれ落ち行き、残るは巴を含む七騎となり、さらに戦ううちに主従五騎となった。義仲、今井、手塚太郎、手塚別当、巴である。ここで巴を逃がした。手塚太郎は討ち死に、手塚別当は落ちて行った。残るは義仲と今井四郎の二騎のみとなった。
 そこで義仲は覚悟して自害の場所として粟津の松原に向かう。馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にした。これを見た兼平も自害して、木曾源氏勢力は崩壊した。
④ 去てこそ粟津の軍は無かりけれ
 『平家物語』の「木曽最期」の、この文章が文法的に議論になるらしい。普通には戦いが終わったと解釈するが、戦いらしきものは無かったと解釈も出来るというのだが、木曽勢三百余騎、甲斐源氏軍六千余騎の戦いだから、無かったとは言えない。
⑤ 巴御前の謎
 『平家物語』には「巴は最期の主従七騎まで残った。そのうちに主従五騎までなった。木曽は巴を逃がした。手塚太郎は討ち死にし、手塚の別当は落ちた。今井四郎と木曽殿の主従二騎となった」とある。
 『延慶本』には「巴は行方不明になった。残る主従五騎は義仲、今井、手塚太郎、手塚別当、多胡(たこ)家兼(いえかね)である。手塚太郎は討ち死に、手塚の別当は落ち、多胡家兼は生け捕りになった」とある。
⑥ 兼実の感想
 寿永二年十一月、法住寺合戦の後、「義仲は不徳の君(後白河法皇)」を戒める天の使い」と記述していた。
 寿永三年一月、義仲最期の報を聞いたとき、「天は逆賊を罰した。もっともなことである」「義仲が天下を取ってから六十日が経った。(平治の乱の)信頼(のぶより)の前例に比べてその期間は長かった」と記述している『玉葉』。
⑦ 樋口次郎の最期
 樋口次郎は一月十九日、敵対した叔父の源行家を討つため河内長野へ、五百余騎を率いて出陣したので、義仲最期の日に京都にいなかった。京都へ戻る途中で義仲の最期を知った。
 義経軍に加わっていた上野の児玉党は樋口とゆかりがあったので、降参すれば助命を嘆願するとの約束で、降参し捕虜となった。
 しかし、義経は了承したが公卿などが反対したため、切られる事になった。
⑧ 義仲の墓所
・ 滋賀県大津市粟津原近くの「義仲(ぎちゅう)寺」は、義仲の遺体を葬ったという。
・ 京都東山八坂の「法観(ほうかん)寺」は、義仲の首を葬った首塚を移した。
・ 長野県木曽町日義の「徳音(とくおん)寺」は、義仲の遺髪を葬ったという
・ 長野県木曽町福島の「興禅(こうぜん)寺」は、木曽氏が義仲を弔うためという。

 

義仲寺(ぎちゅうじ)

 

 滋賀県大津市馬場

 

 義仲の墓がある。

二十四、鎌倉武家政権の成立

 

① 概要
 この後、頼朝源氏軍は一の谷合戦、翌年の屋島(やしま)の合戦、壇ノ浦(だんのうら)の合戦で平家軍に勝利し平家(清盛)一門は滅亡した。頼朝は鎌倉に武家政権を始めた。最期の手柄は頼朝のものとなった。頼朝は建久(けんきゅう)三年(一一九二年)に征夷(せいい)大将軍に任命された(『吾妻鏡』『玉葉』)。
② 最終の勝利者
 この源平合戦(治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱)の頃、頼朝に味方した関東武士の多くは平氏系である。もちろん北条氏も平氏系である。頼朝は彼らに利用されたのである。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝利者に都合の良いように歴史は記録される。清盛平家一門が滅びただけである。源氏の勝利のように見えるが、源氏も頼朝の子供の三代で終わりとなる。最終の勝利者は執権(しっけん)となった平氏系の北条氏である。
 関東の武士団は京都朝廷からの独立した関東を希望していたようだが、頼朝や子の頼家や実朝は朝廷に従属する政権を志向したので反発を招き、暗殺されたようだ。
頼朝は落馬したのが原因とされているが、『吾妻鏡』には詳しい説明が無い。頼家や実朝も暗殺されたようだが、詳細は不明である。

 

芭蕉の墓

 

   (滋賀県大津市馬場義仲寺) 

 

 義仲の墓の隣にある。

二十五、承久の乱と武家政権

 

① 承久の乱
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、この頃、即位した後鳥羽(ごとば)天皇が約四十年後、承久三年(一二二一年)に、鎌倉政権の執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。
 動揺する御家人を頼朝の妻の政子が励ました。義時の息子の泰時(やすとき)が大将軍となり、京都へ向かった。後鳥羽(ごとば)天皇に従う官軍を制圧した。ピンチではあったがチャンスとなり、関東武士団の全国支配が完了した。まさしく完全に「武者の世」となった。
② 後鳥羽上皇を流罪
 鎌倉政権による戦後処理は厳しく、後鳥羽上皇ら三上皇を流罪(るざい)にし、後鳥羽上皇は隠岐の島(おきのしま)へ流罪となった。仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃した。
 清盛や義仲が天皇や法皇を幽閉したと非難されたが、その比ではない。
③ 反乱軍が勝利
 日本史上初めて、朝廷の勅(天皇の命令)や院宣(上皇の命令)に逆う軍事行動によって朝廷に反乱軍が勝利した事件であり、一般には討幕のための挙兵とされている。
 武家政権である鎌倉政権の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、鎌倉政権が優勢となり、朝廷の権力は制限され、鎌倉政権が皇位継承などに影響力を持つようになった。
 鎌倉政権の源氏一門(御門葉)の重鎮(じゅうちん)であった大内惟信(これのぶ)は後鳥羽上皇に味方し敗死し、源頼朝が最も信頼していた平賀氏・大内氏は没落した。

二十六、疑問と解答

 

疑問一 木曽義仲軍は何故、距離的には美濃方面からのほうが近いのに、北陸道から 京都を目指したのか。
解答 一 ①  これは偶然である。信濃の東部、北部に馬や武士が多かったので、信濃の東部を根拠地にした。
 ② 義仲を討伐するため北国の越後の城氏軍が北信濃の横田河原へ侵攻してきた。
  これに防戦した結果、運良く勝利し越後も制圧した。
  すると北陸の武将が義仲の味方に付いてしまった。
  これに対して平家軍が北陸道へ義仲追討軍を派遣した。
  これにも運良く倶利伽羅合戦で勝利し、さらに勢いに乗り、
  京都まで駆け上がってしまった。
 ③ 頼朝より先に入京すれば、頼朝より優位に立てると単純に考えていた。
   入京した寿永二年七月の時点では義仲が優位だった。
   そこから頼朝の逆転計略が始まる。

 

疑問二  頼朝に負けた理由
解答二 ① 義仲は武略には優れていた。政略には関心が無かった。義仲の希望は国守または皇宮警察長官程度だった。政治参謀は不要だった。あくまでも戦いに勝つ事が目的だった。
 ② 頼朝は関東武士団の要望により、関東独立国または関東分国を計画した。
   武略の遅れを政略で巻き返した。
 ③ 頼朝は大江広元、三好善信、中原親能など政治参謀を集めた。
 ④ 義仲は北陸宮(以仁王の子)を天皇に推挙したので、後白河法皇の反感を買った。義仲と頼朝を対立させる後白河法皇の計略が寿永二年十月宣旨である。
 ⑤ 頼朝を東山道、東海道の支配者にするという内容の寿永二年十月宣旨が出た。
 ⑥ 義仲は寿永二年十月宣旨に反対し、後白河法皇を攻撃した。
 ⑦ 義仲と共に入京した有力武将のほとんどは義仲の支配下ではなく、
   対等な同盟軍であった。水島合戦に負けた。十月宣旨が出た。
   後白河法皇を攻撃した後など義仲不利と見ると、すぐ離反した。
   残りは信濃からの約千騎だった。

 

疑問三  他の戦略は無かったか
解答三 ① 法住寺合戦の前後に、後白河法皇と北陸宮を連れて、北陸へ退却すべきだった。後は平家軍と頼朝軍の互角の戦いとなり、その勝者と、勢力を挽回出来たら戦うか。多分、後日、攻められて討たれるか、暗殺されるか。最初に頼朝に反抗して後に頼朝に服従した甲斐源氏などの武士はほとんど討たれたか暗殺された。

 

疑問四  木曽義仲の軍は、何故洛中で狼藉を働いたのですか。
解答四 ① 結論 木曽義仲の軍は、洛中で狼藉を働いていません。
 歴史の通説(俗説)では義仲軍が乱暴なので討伐されたとなっていますが、これは「勝てば官軍、負ければ賊軍」のとおり捏造(ねつぞう、作り話)です。当時はひどい飢饉だったので、平家軍は片道分の食料を現地調達という乱暴な方法で取り上げて進軍しました。官軍としての「追捕(ついぶ)」と言います。取られる側から見ると略奪に等しいものです。源氏軍も同じです。この乱暴な方法を木曽義仲軍のみがしたようにされているのです。この乱暴な方法は内乱が終わるまで続きました。
② 乱暴な義経軍
  『延慶本』によると、義経は宇治川の合戦で民家を焼き払ったので、逃げ遅れた女・子供・老人・病人が焼き殺された。三草山の合戦の前に民家に火を点け松明がわりにした。
③「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」
 いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉(略奪)を働いたというのが平家物語その他の書物による通説(俗説)になっていますが、これは平家物語やその解説者の捏造(ねつぞう、作り話)です。さらに京都の公家の日記『玉葉』の誤解です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述しにくい。敗者については悪事を強調し捏造しても記述される。「猫おろし」「牛車」「法住寺合戦」も権力者となった鎌倉などの関東武士を義仲に置き換えて非難したものである。
 一、『平家物語』や『玉葉』にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。
  (北国下向の場面)
 二、『平家物語・延慶本』には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。
  (梶原摂津の国勝尾寺焼き払う)
 三、『吉記』には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
 四、『愚管抄』には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の
   記述がある。義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
 五、『吾妻鏡』には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。
 つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉(略奪)を働いていた。『平家物語』は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その時庶民の乱暴狼藉を語る事は出来ない。また勝者となった権力者の頼朝や朝廷の批判は出来ない。乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である。
 当時の京都の警察官は平家軍が担当していた。七月二十五日に平家軍が西国へ退却したので、京都市内は無警察状態となり、元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民などが放火・略奪を始めたのである。その鎮圧を近くに来ていた義仲軍に期待し、命令したのである。七月二十八日に入京したが、その鎮圧には『玉葉』の伝聞によれば、九月五日までは市内の乱暴が記述されているので、一か月を要したかもしれない。
 ・『玉葉』は右大臣・九条兼実の日記です。
 ・『吉記』は左大弁・吉田経房の日記です。
 ・『愚管抄』は僧侶・慈円の歴史書です。(慈円は九条兼実の弟)
 ・『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録(北条氏より)とされています。
 参照 ・ 詳細は『朝日将軍木曽義仲洛中日記』

 

疑問五. 義仲の失敗は何か。
解答五, 頼朝が何故、成功したか検証すれば良い。

① 政略、計略の優れている順
 頼朝 > 後白河法皇 > 義仲
さらに武力を背景に持つ頼朝のほうが強い。
② 武力の無い場合は計略を巡らすしかない。
 後白河法皇の武力はほとんど無い。頼朝の武力と義仲の武力はほぼ同じである。
 中間派をいかにして味方につけるかによる。頼朝は優秀な政治参謀を集めた。
③ 七月、義仲軍入京時は中間派が義仲に味方した。義仲軍優勢である。
 しかし、朝廷の評価は、勲功の第一は頼朝、第二が義仲、第三が行家となった。
 これは頼朝の事前の計略による。
④ 十月、頼朝へ十月宣旨が出た。これは東山道、東海道の支配を頼朝に認めるというもので、頼朝に強大な権限が与えられた。義仲から離れる者が増え、頼朝がかなり優勢となる。頼朝の計略勝ちである。
⑤ 閏十月、水島合戦で義仲軍は敗北した。義仲軍の不敗神話が消え、義仲から離れる者がさらに増えた。頼朝が、さらに優勢となる。
⑥ 十一月、義仲は法住寺合戦で法皇御所を攻撃した。この頃は未だ朝廷が国家、人民、武士を支配するというのが建前の時代である。朝廷に弓引く者には付いていけないと義仲から離れる者がさらに増えた。頼朝またさらに優勢となる。
⑦ 義仲、平家滅亡後
  義経追討の名目で、「守護」「地頭」を設置し、貴族、寺社の領地を奪う。
⑧ 承久の乱
  後鳥羽上皇が鎌倉政権打倒を狙ったが、逆に、朝廷が負け、鎌倉政権の全国支配が完成した。
⑨ やはり十月宣旨の効果が大きい。
 後白河法皇は義仲を牽制するため十月宣旨で頼朝に関東の支配権を認めたが、強大な権限を与えたため、義仲、平家、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝が勝ち残り、次々と武力を背景とした頼朝に押し切られていく。
⑩ 鎌倉、室町、江戸時代は武士の時代
 武士が朝廷、国家、人民を支配する時代となった。朝廷に弓引くのは当たり前の時代となった。

 

疑問六 木曽義仲の正式名は源義仲ですか。
解答六 ① 源という姓の人は大勢います。区別するため領地名、居住地名、役職名、官職などで区別するようになりました。木曽義仲は木曽に住んでいた事が有ったので、木曽義仲と名乗りましたが、生まれた所にそのままいたら、大倉義仲とか秩父義仲と名乗ったかもしれません。現在の木曽郡は、「岐蘇(きそ)」または「吉蘇(きそ)」の文字が使用されていたという。
 ② 源義経も二人います。頼朝の弟の源義経は有名ですが、九郎判官(ほうがん)義経と呼ばれます。判官は役職名です。義仲に味方していた近江源氏の山本という領地の源義経は山本義経と呼ばれています。

 

疑問七 頼朝は何故、弟の義経や範頼、従弟の木曽義仲を殺したのですか。
解答七 当時は、江戸時代のような長男優先の制度では無かった。縁故、能力、実力主義であった。母方の身分が高いと出世の可能性が高い。トップになろうとすれば、ライバルとなる兄弟、従弟でも従順な者以外は消す必要がある。頼朝は北条氏に推されてトップになるため、義経や義仲など敵対する甲斐源氏を多く消している。一部、従順な足利、新田、甲斐源氏の一部は残った。

 

疑問八 巴は義仲の正妻か妾か
解答八 ① このころ、正妻・妾の区別をしている人は少ない。現代日本のような厳格な一夫一婦制ではない。一夫多妻も多く、「不倫」の言葉は無い。右大臣の九条兼実にも数人の女房(妻)がいたが、正妻・妾の区別をしていない。九条兼実の子に母親による差別は無い。義仲の父・義賢にも数人の妻がいた。祖父の為義にも数人の妻がいて男子だけで十人もいる。家督を継ぐ嫡子は親が決めた。長男優先ではない。義仲にも数人の妻がいた。妻と妾の区別は無い。
② 「嫡妻」「本妻」「妾妻」の区別をしている貴族もいた。九条兼実は葬式に区別するのが適当であるか明法博士(みょうぼうはかせ、法律の専門家)に質問した。明法博士は若干の差を付けるのが宜しいと回答した。回答を聞いた九条兼実は何も記述していない。その程度である。
『源平盛衰記』はこのころから百年以上の後に編纂された。そのころには正妻と妾の区別をするようになったかもしれない。『吾妻鏡』には「妻」と「妾」の区別がある。
③ 天皇の場合も、妃候補の女性は「中宮(ちゅうぐう)」として入内(じゅだい)し、男子が誕生すると皇后待遇になる。その男子が天皇になると「国母(こくも)」と呼ばれた。
④ 日本の明治初期は一夫多妻だった。明治三十一年に欧米諸国を真似て一夫一婦制に変更した。イスラム教では正妻は四・五人まで可のようである。アフリカには一夫多妻制の国もあるという 。英米は一夫一婦制で不倫に厳しいが、フランスは浮気に寛容で、不倫の言葉は無いようだ。

 

疑問九 巴は薙刀(なぎなた、長刀)を持ったか
解答九 ① 『平家物語』には「巴は色白く髪長く、容顔誠にすぐれたり。大太刀・強弓持たせて」、『延慶本』には「巴といえる美女である。重籐の弓に、うすべうの矢を負い」、『源平盛衰記』には「巴は矢二十四本を背負い、重籐の弓に・・・。女も弓を引かなかった。女も太刀に手をかけず」とある。
 巴は騎馬武者のようである。騎馬武者は弓矢が主、刀が従の武器である。
② 巴が絶対に薙刀を持たなかったということではない。弓矢・刀が無くなり、薙刀が近くにあれば、手にするだろう。また薙刀を持つ部下の訓練のためには薙刀を手にするかもしれない。
③ 薙刀は、当時は歩兵の従者や僧兵の武器である。南北朝時代から槍が増え始め薙刀はすたれた。
④ 江戸時代に、武家の女性の護身用として復活したので、薙刀は女性、女性は薙刀というイメージが定着したようだ。巴が薙刀を持つ絵が多い。

 

第三章 とりまく人物編

 

一、源義賢・・・義仲の父

 

① 概要
 木曾義仲(源義仲)の父、源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代末期の河内源氏(かわちげんじ)の武将。源為義(みなもとのためよし)の次男。源義朝の異母弟。生誕不詳(一一二六年?)、久寿二年(一一五五年)八月没(『延慶本』)。
② 東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)
 一一三九年、後に近衛天皇となる東宮(とうぐう、皇太子)体仁親王を警護する帯刀(たちはき)の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に任官し、この時点では河内源氏の嫡流を継承とされる。
③ 頼長のお気に入り
 翌年、殺害事件の犯人を捕らえたが、義賢がその犯人に関与したとして帯刀先生を解任された。その後は左大臣・藤原頼長(よりなが)に仕えた。一一四三年、頼長の所有する能登(のと、石川県)国の預所(あずかりどころ)職となるが、一一四七年、年貢(ねんぐ)未納により罷免(ひめん、クビ)され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になる(『台記』)。頼長のお気に入りのようだ。
④ 上野国多胡へ
 京堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり関東に下った兄・義朝が、一一五三年に下野(しもつけ、栃木県)守に就任し南関東に勢力を伸ばした。義賢は父の命により義朝に対抗して北関東へ下った。上野(こうずけ、群馬)国多胡(たこ)を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国・比企郡・大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばした。
⑤ 大蔵合戦
 久寿二年(一一五五年)八月、義賢は義朝の代わりとして鎌倉にいた甥(おい)の源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦となり義父・重隆と共に討たれた。享年は三十前後とされる。
 大蔵館付近にいた義賢の次男で二歳の駒王丸は、畠山重能(はたけやましげよし)・斎藤実盛(さいとうさねもり)らの計らいにより信濃国・木曾(木曽町)の中原兼遠に預けられ、後の木曽義仲(源義仲)となる。
⑥ 義仲の兄弟
 京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政の養子となった。後に以仁王と頼政の挙兵のとき、宇治で頼政と共に戦死した(『平家物語』)。
 また『吾妻鏡』によると、宮菊という娘がいたようだ。

 

二、小枝御前・・・義仲の母

 

① 概要
 義仲の母は秩父次郎大夫重隆の娘とされる。『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)には遊女とある。
② 『平家物語』
 『平家物語』には「父義方(義賢)は悪源太義平に討たれた。母が泣く泣くかかえて信濃へ」、『平家物語・延慶本』には「義賢は上野国・多胡郡に居住し、秩父次郎大夫重隆の養君になりて、武蔵国・比企郡へ通いける。義朝の一男悪源太義平が大蔵の館にて義賢、重隆共に討った。母が泣く泣くかかえて信濃へ」、『源平盛衰記』には「父義賢は武蔵国・多胡郡の住人で、秩父次郎大夫重澄の養子である。義賢が武蔵国・比企郡へ行くのを、義朝の嫡男悪源太義平が相模国・大倉口で討った」とある。
③ 『吾妻鏡』
 『吾妻鏡』には「義賢は武蔵国の大倉の館で、鎌倉の悪源太義平に打ち滅ぼされた。兼遠が義仲を抱いて信濃国・木曽に逃れた」とある。
④ 母の名
 父の名は源義賢であるが、母の名は不明である。『尊卑文脈』には遊女とある。遊女とは現代の女芸人、タレントである。

京都の人か、街道宿場の人か。
 『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)は初期の系図集である。姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。ただし一部信憑性に欠ける部分もある。『木曽家伝』に「義仲の母は三位将の娘小枝」とある。
⑤ 小枝御前の墓所
 長野県・木曽町・日義の徳音寺は小枝御前の菩提寺として義仲が建立したという。土石流により損壊したので、やや下流の現在地に再建したという。徳音寺のあった集落名は「徳音寺」という。長野県・塩尻市の長興寺にもある。

 

三、中原兼遠・・・義仲の養父

 

① 概要
 中原 兼遠(なかはら の かねとお、生年未詳 - 治承五年(一一八一年)?)は、平安時代末期の武家。右馬少允(従七位上相当)・中原兼経の子。木曾義仲の乳母父。木曾中三(中原氏の三男)を号した。
② 通説
 朝廷で代々、大外記(事務官)を務めた中原氏の祖である中原有象の弟・以忠から繋げる系図がある。父の兼経は朝廷で正六位下・右馬少允に叙任された後、信濃国佐久郡に移住し牧長を務めたとされる。『木曾参考』には但馬(たじま、兵庫県北部)国・城崎の人とある。
③ 平家物語
 『平家物語』には「木曽中三兼遠」、『源平盛衰記』には「中三権頭」、『吾妻鏡』には「中三権守兼遠」とある。
④ 信濃権守(副知事)
 信濃国木曾地方に本拠を置く豪族という。久寿二年(一一五五年)の大蔵合戦で源義賢が甥の源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育した。信濃権守(副知事)であったという。駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾次郎義仲と名乗って治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦う。兼遠の子である樋口次郎兼光と今井四郎兼平はともに義仲の忠臣となった。
 『源平盛衰記』では巴御前は兼遠の娘で義仲の妾となっており、また一説によるともう一人の娘は義仲の長男義高を生んでいるという。
⑤ 中原兼遠の墓所
 長野県・木曽郡・木曽町・日義の林昌寺にある。林昌寺は兼遠の開基という。
⑥ 林昌寺
 古文書によると、林昌寺は「元原野」集落にあったが、応永十三年(一四○六年)に木曽駒ケ岳からの土石流により林昌寺は流損廃寺となった。一五四年後に林昌寺は再建されたという。廃寺、再建を繰り返し現在に至る。原野集落は木曽川のやや上流に移転し、元の原野集落跡は現在「元原」と呼ばれる。(『源氏命運抄』)

四、木曽四天王・・・今井・樋口・根井・楯

 

① 概要
 四天王とは仏教の四人の守護神をいう。また四人の家臣・協力者をいう。義仲の下で活躍した、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯(たて)親忠(ちかただ)の四人の武将を義仲四天王、木曽四天王という。
② 平家物語には
 『平家物語』には「四天王と聞こゆる今井・樋口・楯・根の井」、
 『源平盛衰記』には「木曽のうちで今井・樋口・楯・根井が四天王と聞く」、
 『愚管抄』には「義仲には山田・樋口・楯・根の井という四人の郎従あり」とあるが、山田は今井の勘違いと思われる。

 

五、今井四郎・・・乳母子(めのとご)

 

① 概要
 今井 兼平(いまい かねひら)は平安時代末期の武将。正式な名は中原 兼平(なかはら の かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子(めのとご)で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、妹に巴御前がいる。信濃国今井の地を領して今井を称した。
② 平家物語
 『平家物語』には「木曽殿の御乳母子(おんめのとご)」、『延慶本』には「木曽)殿には乳母子、信濃国住人、木曽仲三権守兼遠の四男、今井四郎中原兼平」、『源平盛衰記』には「信濃国住人、中三権頭兼遠の四男、朝日将軍の御乳母子今井四郎兼平」とある。
③ 義仲の乳母子
 義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕えた。治承・寿永の乱では治承四年(一一八○年)の義仲挙兵に従い、治承五年(一一八一年)五月、横田河原の合戦で城長茂を破る。寿永二年(一一八三年)、般若野(はんにゃの)の合戦・倶利伽羅(くりから)峠合戦・篠原(しのはら)合戦で平氏軍を破り、七月には平氏を都落ちさせて義仲と共に入京した。十月、福隆寺縄手の合戦(ふくりゅうじなわてのかっせん)で妹尾兼康(せのお かねやす)を破る。十一月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟が活躍した。元暦元年(一一八四年)正月二十日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の合戦で討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年三十三。
 その壮絶な最期は、乳兄弟の絆の強さを示すエピソードとして知られる。
④ 木曾殿最期・・・『平家物語』の「木曾殿最期」
 戦かう前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静にアドバイスをし、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。
⑤ 自害の方法
 太刀の先を口の中に含み、飛び降り、自害した。この自害の方法は『延慶本』によると「横田河原の合戦のとき、杵淵(きねふち)小源太重光という武士が刀を口にくわえて最期を遂げた。これを見て惜しまぬ人はいなかった」とある。
⑥ 今井四郎の墓所
 長野県木曽町日義の徳音寺に、義仲、兼光、巴、小枝御前の墓と共にある。
 最期の地の近く、滋賀県・大津市・青嵐にもある。今井の子孫が建てた。

 

今井神社

 

  (長野県松本市今井) 

 

 今井兼平の館跡という。

六、樋口次郎・・・今井四郎の兄

 

① 概要
 樋口 兼光(ひぐち かねみつ)は、平安時代末期の武将。中原兼遠の次男。今井四郎兼平の兄。正式な名は中原 兼光(なかはら の かねみつ)。木曾義仲の乳母子にして股肱の臣(ここうのしん)。義仲四天王の一人。
 ・股肱の臣・・・、主君の手足となって働く、もっとも頼りになる家来。
 信濃国樋口地区の武将であるが、信濃国筑摩郡樋口谷(現・木曽町日義)に在して樋口を称した。樋口地区については、辰野町、佐久穂町の伝説もある。
② 平家物語
 『平家物語』には「今井四郎の兄」、『延慶本』には「木曽仲三権守兼遠の二男、今井四郎中原兼平の兄」、『源平盛衰記』には「乳母子の樋口次郎兼光」とある。
③ 兼平と共に
 乳母子(めのとご)として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕える。治承・寿永の乱における治承四年(一一八○年)の義仲挙兵に従って各地を転戦した。
 寿永二年(一一八三年)の倶利伽羅峠合戦などで重要な役割を果たし、平家を都から追い落として七月に義仲と共に入京した。治安維持の任にあたる。九月に後白河法皇の命により、義仲は平家追討のため西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせた。「寿永の十月宣旨」により法皇と義仲が対立した法住寺合戦では法皇を拘束するなど義仲軍の中心として活躍した。
④ 行家討伐
 元暦元年(一一八四年)正月、義仲に離反した源行家を討伐するため、河内国・長野へ五百余騎を率いて出陣したが、その間に鎌倉軍が京都へ到着し、敗れた義仲は粟津の合戦で討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る途中で源義経の軍勢に生け捕りにされた。二十六日、義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され、二月二日、渋谷高重によって斬首された。
⑤ 兼光の助命
 『吾妻鏡』によれば、兼光は武蔵国児玉党の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を願い、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという。
⑥ 樋口兼光の墓所
 木曽町日義の徳音寺に、義仲、兼平、巴、小枝御前の墓と共にある。
 長野県辰野町樋口にもある。

 

樋口次郎の墓

 

 (長野県辰野町樋口区) 

 

 樋口次郎の墓という。  

七、根井行親・・・四天王の一人

 

① 概要
 根井 行親(ねのい ゆきちか)は、平安時代末期の武将。木曾義仲指揮下の有力家臣にして、義仲四天王の一人。
② 行親の生まれた望月氏は滋野氏の庶流。滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。
③ 保元の乱に参加
 保元元年(一一五六年)の保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。
④ 義仲に従い各地に転戦
 義仲が治承四年(一一八○年)信濃国・小県郡・丸子の依田(よだ)城で挙兵して以後、義仲に従い各地を転戦し、養和元年(一一八一年)九月水津の合戦で平通盛、経正らを破る。
⑤ 宇治川の合戦
 元暦元年(一一八四年)の宇治川の合戦では、義仲の命を受け、息子の楯親忠や志田義広らと共に三百余騎で宇治川の防衛に当たったが、二万五千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したか、後に六条河原で討ち取られたともいう。この合戦では先陣を焦った頼朝方の武将畠山重忠の馬(磨墨)を射たという。
⑥ 獄門
 同年一月二十六日、義仲や今井兼平、高梨忠直らと共に東洞院の北にある獄門の木に梟首された(『吾妻鏡』)。
⑦ 根井行親の墓所
 長野県佐久市根々井の正法寺に、行親の供養塔と伝わる多層塔がある。

八、楯六郎・・・根井行親の息子

 

① 概要
 楯 親忠(たて ちかただ)は、平安時代末期の武将。木曾義仲の家臣で、義仲四天王の一人。根井行親の六男。
② 義仲に従い各地を転戦
 義仲に従って横田河原の合戦や倶利伽羅峠の合戦などに参戦し、活躍した。元暦元年(一一八四年)、宇治川の合戦に父・行親と共に参戦し、後に六条河原で討ち取られたという。義仲の敗死後に行親の妻は義仲子孫と共に上野国(渋川市北橘村)に逃亡したという。
③ 佐久穂町の館
 長野県南佐久郡佐久穂町館に屋敷を構えていたという。
④ 群馬県渋川市北橘村に楯親忠の供養塔がある。

 

楯六郎館

 

 (長野県佐久穂町館)

 

 楯六郎親忠の館跡という。

九、覚明・・・書記

 

① 概要
 覚明(かくみょう/かくめい、生没年未詳)平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。大夫房覚明、信救得業(しんぎゅうとくごう)とも。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。木曽義仲の右筆(ゆうひつ、書記)。
② 『平家物語』によると、覚明は俗名を道広といい、勧学院(藤原氏の子弟が学ぶ学校兼宿舎)で儒学を学び、蔵人(くろうど、事務官)などを務めたが、意あって出家し、最乗房信救と名乗った。最初は比叡山に入り、南都(奈良)にも行き来していた。
③ 義仲の右筆
 治承四年(一一八○年)の以仁王の挙兵に際し、以仁王の令旨によって南都寺社勢力に決起を促されると、覚明は令旨に対する南都の返書を執筆し、文中で平清盛に対し「清盛は平氏の糟糠(そうこう)、武家の塵芥(じんかい)」」と激しく罵倒(ばとう)して清盛は激怒した。平氏政権によって探索を受けた覚明は北国へ逃れ、木曽義仲の右筆となって大夫房覚明と名乗り、その後義仲の上洛に同道した。
④ 埴生八幡へ木曽願文
 義仲は倶利伽羅峠合戦の前に、本陣近くの八幡社に覚明に願文を書かせて奉納させた。この願文は名文として知られている。
⑤ 延暦寺対策(山門工作)
 義仲は六月に都への最後の関門である延暦寺と交渉し、七月に入京を果たした。
覚明は比叡山との交渉で牒状(ちょうじょう、回状)を執筆するなどして活躍した。
 比叡山延暦寺には数千の僧兵(寺の警備兵)がいた。その武力や威力には白河上皇が「意のままにならぬものは、すごろくのさいころと賀茂川の水と山法師(延暦寺の僧兵)である」と嘆かれたほどである。清盛も対策に頭を痛めた(『平家物語』)。
⑦ 山門が義仲に味方
 義仲はその対策を覚明にまかせた。覚明は京都に住んでいて比叡山に入り、寺の僧兵の状況に通じていたので「義仲に味方せよ」という手紙を送りつけた。
 当時の延暦寺などでは重要事項は数千の僧兵が全体会議により決定するものであり、その決定には上層部も反対は出来なかった。現代の民主主義のような制度である。「義仲は連戦連勝で強いが、神仏の加護があるおかげである。源氏に味方せよ、悪徒の平氏に味方するなら、合戦となる。合戦となれば比叡山は滅亡するかもしれない」という脅しのような内容である。長い議論の末、義仲に味方と決まった。その後、平氏一門は京を離れ西方へと逃れていった(『平家物語』)。
⑧ 洛中
 洛中での活躍は見られない。貴族社会や政治の駆け引きには通じていなかったのだろう。法住寺合戦の後に若干の助言をしている程度である(『平家物語』)。
⑨ 義仲死後
 義仲死後は元の名の信救得業を名乗り、箱根山に住んだ。鎌倉でも活動しており、『吾妻鏡』に、建久元年(一一九○年)五月、源頼朝・北条政子夫妻列席の下、頼朝の同母妹である坊門姫の追善供養を行い、足利義兼を施主とする一切経・両界曼荼羅供にも参加している。しかし建久六年(一一九五年)十月に、頼朝により箱根神社への蟄居(ちっきょ)が命じられた記録がある。
⑩ 文学的才能に長け、箱根神社の縁起を起草し、『和漢朗詠集私注』を著し、『平家物語』に覚明著とされる願文などが複数収められている事から、物語成立へ関与したとの説もある。
⑪ 覚明の謎と伝承
 覚明については謎と伝承が多く、義仲の遺児にまつわる覚明神社(広島県尾道市向島)の落人伝説や、海野幸長と同一人物とする説、西仏と名乗って親鸞や法然に帰依したとの説もある。

 

 

 巴淵句碑

 

 (長野県木曽町日義) 

 

 巴御前の龍神伝説がある。

 

「山吹も 巴もいでて 田うえ哉」許六(松尾芭蕉の弟子)

十、巴御前・・・今井四郎の妹

 

① 概要
 巴御前(ともえごぜん)(生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の女性。字は鞆、鞆絵とも。『平家物語』に「巴は木曽義仲に仕える女武者」、『源平盛衰記』に「巴は中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の妹で、木曽義仲の妾」とある。
② 巴御前は実在したか
 巴は『平家物語』や『源平盛衰記』に登場するのみで、存在自体も疑問視される。しかし、女性の名前は記録に残りにくい。頼朝の娘の大姫というのは「長女」を意味する通称で本名は不明である。清少納言や紫式部ですら本名は不明である。
 『平家物語』に「巴は幼少より義仲と共に育った便女(美女、召使い)」、『源平盛衰記』に「今井四郎兼平、樋口次郎兼光、巴御前は中原兼遠の子供で兄弟、巴御前は義仲の妾」とある。
③ 樋口次郎、今井四郎、巴は兄弟だったか  
『平家物語』には「義仲は巴・山吹という二人の便女(召使、美女)を連れてきた」、『延慶本』には「木曽は幼少より同様に育ちて」、『源平盛衰記』には「木曽殿の乳母子の仲三権頭の娘巴」とあり、樋口次郎、今井四郎、巴は兄弟となる。
④ 巴御前は妾だったか
 『源平盛衰記』に「巴は義仲の妾」とあるが、この問題は、婚姻について、当時は現在のような厳格な一夫一婦制でなく、法律や道徳律に何の規制も無い。一夫多妻も多い。現在のような「不倫」の言葉は無い。嫁入り婚でなく、婿入り婚も多い。祖父の為義、父の義賢にも数人の妻がいた。義仲にも何人もの妻がいた可能性がある。未だ正妻、妾の区別は無い。
 巴は単なる女武者、美女、侍女か。『源平盛衰記』や『平家物語』は約百年後に成立したという。その頃になると正妻・妾の区別をしたか。
⑤ 巴御前は絶世の美女か
 『平家物語』には「巴は色白く髪長く、容顔誠にすぐれたり」、『延慶本』には「巴といえる美女なり」、『源平盛衰記』には「長い黒髪」とある。絶世の美女は後世の創作、伝説だろう。
⑥ 義仲最期の時、巴御前は
 『平家物語』には「巴は最期の七騎まで残った。戦ううちに主従五騎までなった。義仲は巴を逃がしてやった。手塚太郎は討ち死にし、手塚の別当は落ちて行った。今井四郎と木曽殿の主従二騎となった」とある。
 『延慶本』には「巴は行方不明になった」とある。
⑦ 巴のその後
 『源平盛衰記』には「巴は捕えられて、鎌倉へ送られ、和田義盛の妻になり、朝比奈三郎義秀を産んだ。和田合戦のとき、朝比奈が討たれた後、越中国の石黒を頼り、出家し九十一才で亡くなった」とある。『物語』であるから事実かは疑問である。
⑧ 坂額(はんがく)御前の話
 『吾妻鏡』には{「巴」は登場しないが、「横田河原で負けた城長茂が、後に京都で反乱を起こし討たれた。甥の資盛が越後で反乱を起こし、討伐軍が越後に向かった。甥の資盛と長茂の妹の坂額御前が猛反撃した。坂額御前は捕虜となり鎌倉に送られた。坂額御前を見た甲斐国の武将が妻にしたいと申し出た。坂額御前は甲斐国に連れて行かれた」という類似の話がある。

 

巴塚

 

 (富山県小矢部市蓮沼) 

 

 巴がこの地で没したという。

十一、山吹御前・・・何処へ

 

① 概要
 山吹御前(やまぶきごぜん)は、平安時代末期の女性。木曽義仲の便女(召使、美女) といわれている。
② 『平家物語』に「巴御前と共に信濃国から京へと付き添ってきたが、義仲の最期の合戦には病で動けなかったため同行できなかった」という。
③ 巴と同様に中原兼遠の一族とされることもあるが、金刺氏の持ち城に山吹城という城がある点と『諏訪大明神絵詞』に「諏訪下社大祝である金刺盛澄が義仲を婿にとり、女の子が生まれた」と記述されている点から金刺一族の出身であるとの説もある。
④ 山吹の没地
 義仲の没後、どこかへ逃げのびたとされるが、山吹の没地とされる伝説の地は京都を初め、長野、愛媛など十カ所以上もある。いずれが真実かは不明である。

 

巴・山吹の五輪塔

 

 (長野県上田市) 

 

 巴と山吹の供養塔という。

十二、仁科盛家・・・信濃平氏

 

① 概要
 仁科盛家(にしなもりいえ)は平安時代末期の武将。信濃国安曇郡一帯を治める大豪族。信濃平氏、正式な官職名は平盛家(たいらのもりいえ)。
② 木曾義仲の挙兵
 木曾義仲の挙兵に従って、横田河原の合戦、倶利伽羅峠の合戦等で武功を上げた(『延慶本』)。
③ 義仲入京
 義仲と同時に入京し、在洛中は京中警護を行い左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられた(『吉記』)。法住寺合戦の後、十二月三日に左衛門尉を解官(げかん、クビ)された(『吉記』)。法住寺合戦の後、義仲から離反したようである。

十三、手塚光盛・・・手塚治虫の先祖

 

① 概要
 手塚 光盛(てづか みつもり、? - 寿永三年(一一八四年))は、平安時代末期の武将。諏訪神社下社の祝部(はふりべ、神職)である金刺氏の一族。手塚別当の子(甥とも)。兄に金刺盛澄。通称は太郎。
② 上田市の手塚
 『源平盛衰記』には「信濃国諏訪郡の住人」とある。
 上田市の手塚地区に、居館跡や流鏑馬の遺構・光盛の菩提を弔った五輪塔や寺跡など手塚氏ゆかりのものが多数残る。光盛をはじめとする手塚氏は上田市の手塚地区が本拠と推定される。
③ 義仲挙兵
 治承四年(一一八○年)、木曽義仲が挙兵するとその指揮下に参加し、有力な部将の一人となる。寿永二年(一一八三年)、篠原合戦の際に義仲の命の恩人の斎藤実盛を討ち取った際の逸話は、『平家物語』において著名である。
④ 義仲と共に戦死
 寿永三年一月、源範頼、義経の追討軍と合戦、主君義仲と共に戦死。最後まで義仲に従った四騎の内の一人であったという。
⑤ 手塚治虫
 後代において光盛の末裔を称する者に、江戸時代後期の蘭学者・手塚良仙やその子孫である昭和の漫画家・手塚治虫などがいる。
⑥ 長野県・上田市・須川には手塚氏の子孫と称する者達の集落と墓がある。

 

手塚太郎五輪塔 

 

  (長野県上田市・塩田)

 

 手塚太郎の五輪塔という。

十四、金刺盛澄・・・弓の名手

 

① 概要
 金刺 盛澄(かなさし もりずみ、生没年未詳)は、平安時代後期の諏訪(すわ)大社下宮の神職・武士。諏訪盛澄とも呼ばれる。弟に手塚光盛がいる。
② 義仲挙兵
 治承・寿永の乱の当初は木曽義仲の挙兵に応じて従ったが、御射山(みさやま)神事のため弟の光盛を留め置いて帰国した。平家の家人でもあったことから、義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられた。頼朝は盛澄を処刑しようとしたが、盛澄が藤原秀郷流弓術を継承する名手であったことから、景時は盛澄の命を惜しみ、頼朝に説得を重ねた末、せめて盛澄の弓の技量を見てから死罪にして欲しい、と請願した(『諏訪大明神絵詞』)。『吾妻鏡』には景時の助言は無い。
③ 鶴岡八幡宮で流鏑馬
 盛澄は頼朝の基に参上し、鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)で流鏑馬(やぶさめ)を披露した。この時頼朝は盛澄が騎乗する馬としてわざと暴れ馬を与えた上、盛澄が指定された八つの的を射抜くと、射抜いた的の破片、さらに的を立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けたが、盛澄は見事に全て射抜いたため、赦免された(『吾妻鏡』)。
 この時、景時が同じく捕縛された義仲の郎党六十人余にも寛恕(かんじょ)を施して欲しい、と頼朝に願い出て、その郎党達もまた助命されたという(『諏訪大明神絵詞』)。
④ 頼朝の御家人
 その後は頼朝の御家人となり、流鏑馬や的始の儀式で活躍した。史料では建仁三年(一二○三年)までの活動が見られる。
⑤ 梶原塚
 下諏訪町には盛澄が恩人の梶原景時を偲び建立した梶原塚がある。

十五、源行家・・・義仲の叔父(おじ)

 

① 概要
 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は河内源氏第五代の源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、八条院の蔵人(くろうど、雑務職)に任ぜられ、名を行家と改めた。諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。
② 挙兵
 甥の源頼朝に決起を促した行家であるが、頼朝の指揮下には入らず独立勢力を目指し、不和となる。三河国、尾張国で勢力圏を築き、養和元年(一一八一年)、甥の源義円(頼朝の弟)らと共に尾張国の墨俣川の合戦、三河国矢作川の合戦で二回に亘り平重衡ら平家方と交戦したが、壊滅的な敗北を喫した。頼朝のもとに逃れて相模国松田に住む。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否され、甥の木曽義仲のもとに行く。義仲の下では倶利伽羅峠の合戦の時、能登国の志保山の合戦に参加、上洛に当たっては伊賀方面から進攻し平家継と合戦をした(『吉記』)。
③ 入京
 寿永二年(一一八三年)、義仲と共に入京し、後白河法皇の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家となり、従五位下・備後守に叙任されたが、義仲と差があるとして不満を述べ、備前守となった。更に平家没官領のうち九十か所余りを与えられた(『延慶本』)。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族達の不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内に入り込み、後白河法皇の双六(すごろく)の相手をした。
 しかし義仲と不和となり、平家討伐に名を借りて京を脱出した。播磨国で平知盛・重衡軍との室山の合戦で敗北し、河内国の長野城へ立て籠もった。義仲が派遣した樋口兼光に敗れて紀伊国の名草へ逃げた。生来交渉力があり、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、武略の才能には乏しかった。
④ 義仲滅亡後
 義仲が頼朝の派遣した源範頼・義経の軍勢に討たれた後、行家は元暦元年(一一八四年)二月に後白河法皇の召しによって帰京した。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加せず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向せず、半ば独立した立場をとって和泉国と河内国(河内源氏の本拠地)を支配していた。
⑤ 最期
 元暦二年(一一八五年)八月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の合戦後に頼朝と不和となった義経と結び、十月に反頼朝勢力を結集して後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け「四国地頭」に、義経は「九国地頭」にに補任された。しかし行家らに賛同する武士達は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、十一月三日、行家・義経一行は都を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けてこれを撃退したが(河尻の合戦)、大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏した。翌年の五月、地元民の密告により露見し、北条時定の手兵によって捕らえられ、長男・光家、次男・行頼とともに斬首された。
⑥ 感想
 義仲より優位に立とうと、あれこれ工作をせずに、志田義広のように義仲を助ける行動をしていれば、もう少し義仲有利となったはずだが。

十六、志田義広・・・義仲の叔父(おじ)

 

① 概要
 源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)は河内源氏・第五代・源為義の三男。志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)。またの名を義範、義憲(よしのり)とも。
② 頼朝の挙兵
 『平家物語』では治承四年(一一八○年)五月の以仁王の挙兵の際、末弟の源行家が甥の源頼朝に以仁王の令旨を伝達した後、義広の元に向かったとする。『吾妻鏡』によれば同年八月に頼朝が挙兵した後、十一月の金砂城の合戦の後に義広が行家と共に頼朝に面会したが、合流する事はなく、その後も常陸南部を中心に独自の勢力を維持した。
③ 頼朝軍と衝突
 頼朝の東国支配の展開と共に両者の対立は深まり、寿永二年(一一八三年)二月二十日、義広は下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合して二万の兵を集めて頼朝討滅の兵を挙げ、常陸国より下野国へ進軍した。鹿島社の所領の押領行為を頼朝に諫められたことへの反発が義広の軍事行動の動機であり、鎌倉攻撃の計画が事前に発覚したため、下野国で義広軍と頼朝軍が衝突した。
④ 野木宮合戦で義広軍敗退
 下野国の有力豪族の小山朝政は、始め偽って義広に同意の姿勢を見せて、下野国野木宮(現栃木県野木町)に籠もっていたが、二十三日、油断した義広の軍勢が野木宮に差し掛かった所を突如攻めかかり、激しい合戦となった。義広軍は源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らの援軍を得た朝政に敗れ、本拠地を失った。
⑤ 木曾義仲軍に参加
 その後、同母兄・義賢の子・木曾義仲の陣に参加した。常陸国から下野国へ兵を進めたのも、義仲の勢力範囲を目指したと見られる。義広の鎌倉の頼朝攻撃の背景には、義仲の存在があった。このことが義仲と頼朝との対立の原因となるが、義仲は義広を叔父として相応に遇し、終生これを裏切ることはなかった。
⑥ 義仲と上洛
 以降、義広は義仲と共に北陸道を進んで一方の将として上洛した。頼朝は義広を敵視して、後白河法皇に手紙を送り、義広を排除しようとした。
 元暦元年(一一八四年)正月、宇治川の合戦で頼朝が派遣した源義経軍との合戦で防戦に加わるが、粟津の合戦で義仲は討ち死にした。敗走した義広もまた逆賊として追討を受ける身となる。
⑦ 最期
 元暦元年五月四日、伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市の服部山)において抵抗したが、波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊と大内惟義の家人らと合戦の末、斬首された。報告を受けた頼朝はおおいに喜んだという(『吾妻鏡』)。

 

十七、井上光盛・・・信濃源氏

 

① 概要
 信濃源氏、井上九郎光盛。信濃井上氏。『尊卑分脈』によると清和源氏頼季(よりすえ)流とされる。源満仲(多田満仲)の子源頼信が長元元年(一○二八年)の平忠常の乱を平定して東国に勢力を広め、さらに三男の頼季が嫡男源満実とともに信濃国高井郡井上を本貫として井上氏の祖となった。
② 治承・寿永の乱
 源平の合戦(治承・寿永の乱)では同族とされる村山七郎義直が村上氏の支族とされる栗田氏と共に市原合戦で笠原氏を相手に戦ったのをはじめ、北信濃の源氏方として平家方と合戦を繰り広げた。
③ 横田河原の合戦
 『平家物語』では横田河原の合戦で活躍する。保科党を率いる井上光盛が横田河原の合戦で木曽義仲方として参戦して活躍し、信濃源氏の代表格として扱われている。
 赤旗を掲げ、越後勢が油断したとき、白旗に差し替える計略をとり、義仲軍の勝利に導いた。
④ 頼朝により暗殺
 その後は義仲の上洛には従軍せずに源頼朝に従った様だが、甲斐源氏の一条忠頼と共に頼朝に危険視された光盛は、日頃在京していたが、元暦元年(一一八四年)七月に鎌倉に召喚される途上の駿河(するが)国蒲原(かんばら)駅で駿河の武士に誅殺された(『吾妻鏡』)。

 

十八 矢田 義清

 

① 概要
 源 義清(みなもと の よしきよ)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖である源(足利)義康(よしやす)の庶長子。同母弟に義長(義良)、異母弟に義兼・義房がある。通称を矢田判官代(やたのはんがんだい)といい、矢田義清、足利義清とも記される。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏の祖。
② 上野国八幡荘の矢田郷
 本拠の下野国足利荘は嫡子である異母弟義兼が継ぎ、義清は庶長子であるため伯父であり岳父でもある源(新田)義重の猶子となり、上野国八幡荘の矢田郷を獲得したという。
③ 以仁王の挙兵
 京において上西門院(じょうさいもんいん、後白河法皇の姉)に仕え、治承四年(一一八○年)の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動をともにし、頼政の敗死後は源(木曽)義仲の指揮下に走った。
④ 義仲と共に入京
 寿永二年(一一八三年)、義仲軍の上洛の際に源行家や源(多田)行綱と共に京都を包囲し、丹波路から大江山に布陣して京の西方から平氏を追いつめ、七月に義仲と共に入京した。
⑤ 水島の合戦で戦死
 十月、都を落ちて西海にあった平氏を追討するべく、義仲の代官(総大将)として海野幸広とともに一軍を率いて京を出発。閏十月一日、備中国水島(現在の岡山県倉敷市玉島付近)において、大手(正面)の平知盛・重衡、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突した。総大将の義清は船戦に慣れた平氏軍に大敗を喫し、海野幸広や同母弟義長らとともに矢の雨を浴びせられて壮絶な戦死を遂げた。

十九、岡田親義・・・信濃源氏

 

① 概要
 源 親義(みなもと の ちかよし)、生年不詳 - 寿永二年(一一八三年))は、平安時代末期の武将。
 源義光の五男。岡田親義とも呼ばれる。通称は刑部五郎。兄に義業、義清、盛義らがいる。
② 左衛門尉
 仕官を求めて上洛後、左衛門尉となった。保元元年(一一五六年)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者と称した。
③ 倶利伽羅峠の合戦で戦死
 治承四年(一一八○年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の木曽義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の合戦や横田河原の合戦で信濃の平氏軍を破るが、寿永二年(一一八三年)に越中国倶利伽羅峠の合戦で、平知度と相打ちとなり戦死したという。

二十、 山本義経・・・二人義経の一人

 

① 概要
 山本 義経(やまもと よしつね)は、平安時代末期の武将。源義光の系譜を引く近江源氏。父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男山本義定。
 治承・寿永の乱の初期に近江国で挙兵した。本姓が源氏であるため正式な姓名は源義経であり、源頼朝の弟として有名な河内源氏の源義経と同姓同名であったため「義経二人説」で知られる。
② 山本山城の城主
 『吾妻鏡』によると山本義経は、近江国住人で新羅三郎義光(源義家の弟)の五代後裔(系図類では四代)。山本山城(滋賀県・長浜市・湖北町山本)の城主であり弓馬の両芸の優れた武将であった。
③ 佐渡へ配流
 安元二年(一一七六年)、延暦寺の僧を殺害したため佐渡へ配流された。『吾妻鏡』では平氏による告げ口と主張している。治承四年(一一八○年)に罪を許され帰京した。
④ 挙兵
 治承四年十一月二十日、諸国の源氏の旗挙げに同調して、弟の柏木義兼(甲賀入道)ら近江源氏と共に挙兵した。
 近江国の勢多・野路で伊勢国に向かう途中の平氏有力家人・藤原景家とその郎党たちの一行を襲撃し、討ち取った首を勢多橋に晒している。景家の軍勢は平氏打倒の兵を挙げた後に敗れた以仁王を討ち取っており、義経はいわば王の仇を討った事になる。近江源氏の蜂起の経過は九条兼実の日記『玉葉』に記述されている。
⑤ 近江勢
 山本義経・柏木義兼ら近江勢は水軍をもって琵琶湖をおさえ、また小舟や筏を使って勢田に浮橋をかけて北陸からの年貢の輸送を止めた。近江勢は勢多を越えて三井寺に打ち入り、京は騒然とした。近江勢は琵琶湖の西岸に船をつけて寺々に打ち入り、甲賀入道は早々に京へ打ち入ろうと欲したが、蜂起に協力していた甲斐源氏の使者が兵力の不足を訴え、これを止めたという。
⑥ 追討使を近江へ派遣
 十二月に入り、平氏は平知盛を大将軍とする追討使を近江へ派遣した。近江勢は逃げた。平氏軍は勢多・野路に放火して近江勢を追った。これに対して美濃源氏の兵五千騎が近江国・柏原へ出陣した。平氏軍は三千騎でこれに対抗した。十二月五日、近江・美濃源氏の三千騎が平氏軍二千騎に追い散らされた。
⑦ 山本山城・落城
 山本義経は延暦寺宗徒と合力して三井寺に立て篭もり、六波羅へ夜討をしかけた。平氏方は背後を塞いで東西より攻め寄せる体勢をとる。平清房らの援軍を得て平氏方は三井寺を攻め落とした。山本義経は脱出してなおも抵抗を続けた。近江勢は山本義経の本拠である山本山城に篭城したが、十二月に平知盛・資盛に攻められ落城した(『玉葉』)。
⑧ 頼朝に拝謁
 山本義経は逃れて、土肥実平の案内で鎌倉の源頼朝に拝謁して「関東祗候」を許された(『吾妻鏡』)。
⑨ 義仲の軍勢に
 寿永二年(一一八三年)、山本義経は頼朝の元を離れて木曽義仲の軍勢に加わり入京、平氏から身を隠して比叡山に逃れた後白河法皇が都へ戻る際、義経の子・錦部冠者義高が警護している。都では治安維持を担った義仲により京の警備を担当する武将の一人に配置され、伊賀守次いで若狭守に任じられた(『吉記』)。
⑩ 最期
 寿永三年(一一八四年)一月二十日、義仲は源範頼・義経軍に攻められ(宇治川の合戦)没落した。この合戦で義仲軍として参戦した子の錦織義高は逐電し行方不明となり、義経の子の義広(義弘)は戦死した(『吾妻鏡』)。
 これ以後、山本義経は史料に登場せず、消息は不明。

二十一、後白河法皇・・・日本一の大天狗

 

① 概要
 後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治二年(一一二七年)九月 - 建久三年(一一九二年)三月。は平安時代末期の第七十七代天皇。諱(いみな)は雅仁(まさひと)。天皇在位:久寿二年(一一五五年)七月 - 保元三年(一一五八年)八月。
 鳥羽上皇の四男として生まれたので、天皇になれる見込みは無いと諦めていたが、二十九才の頃、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、運良く天皇となり、さらに譲位後は上皇、法皇として三十四年に亘り院政を行い君臨した。
② 日本一の大天狗
 頼朝に「日本一の大天狗」と言われた。それだけの、権謀術数の使い手であり、政治家である。義仲のような単純な武芸にのみ優れた者などひとたまりもない。
 武力を持たない朝廷、天皇は武力を持つ者同士を競わせ、バランスを取ろうとするやり方であやつろうとした。
 その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉政権とは多くの問題を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都(興福寺)北嶺(延暦寺)といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
③ 平家軍退京
 寿永二年(一一八三年)四月、平氏が総力を結集して送り込んだ義仲追討軍は五月の倶利伽羅峠の戦いで壊滅し(『玉葉』)、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。七月二十二日には延暦寺の僧綱が下山して、木曾義仲軍が東塔惣持院に城郭を構えたことを明らかにした(『吉記』)。
 七月二十四日、安徳帝は法住寺殿に行幸するが、すでに「遷都有るべきの気出来」(『吉記』)という噂が流れており、平氏が後白河法皇・安徳帝を擁して西国に退去する方針は決定していた。
 二十五日未明、後白河法皇は源資時・平知康だけを連れて輿に乗り法住寺殿を脱出、鞍馬路・横川を経て比叡山に登り、東塔円融坊に着御した(『吉記』)。
 後白河法皇の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院(安徳天皇の母)、摂政の近衛基通・平氏一族を引き連れて周章して駆け出した。
 二十六日には公卿・殿上人が続々と比叡山の後白河法皇の下に集まり、円融坊はさながら院御所の様相を呈した。
 二十七日、後白河法皇は錦部冠者(山本義経の子)と悪僧・珍慶を前駆として下山し、蓮華王院(三十三間堂)に入る。
④ 義仲軍入京
 二十八日、義仲軍が入京した。義仲軍は北から、行家軍は南から入京した。
公卿議定が開かれ、平氏追討・安徳天皇の帰京・神器の返還が議論された。中山忠親・藤原長方は追討よりも神器の返還を優先すべきと主張したが、木曾義仲・源行家軍が都を占拠しており、天皇・神器の回復の目処も立たないことから、「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下した(『玉葉』『吉記』)。ここに平氏は賊軍に転落し、義仲・行家軍が官軍として京都を守護することになった。
 七月二十八日、後白河法皇は木曾義仲・源行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。後白河法皇にとって平氏が安徳帝を連れて逃げていったのは不幸中の幸いであり、八月六日に平氏一門・党類に二百余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』)、十六日には天皇不在の中で院殿上除目を強行して、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んだ。
⑤ 後鳥羽天皇即位
 後白河法皇は平時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』)。やむを得ず、都に残っている高倉院の皇子二人の中から新天皇を擁立することに決める。ここで木曾義仲が以仁王の子息・北陸宮の即位を主張した。九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯である。義仲の異議を抑えるために御卜(みうら、占い)が行われた。二十日、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が践祚(せんそ)する。後白河法皇は義仲に憤っていたが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領百四十余箇所を与えた(『平家物語』)。
⑥ 義仲西国へ出陣
 木曾義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だった。九月になると治安が回復した。後白河法皇は十九日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」(『玉葉』)と責めた。義仲がすぐに平氏追討に向かうことを奏上したため、後白河法皇は自ら剣を与え出陣させた。
⑦ 寿永二年十月宣旨
 木曾義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京した。康定が伝えた頼朝の申状は、「一、平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「二、平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「三、降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』)と朝廷を大いに喜ばせた。
 十月九日、後白河法皇は頼朝を本位に復して赦免した。頼朝は平治の乱の結果、流罪となっていた。また以仁王の令旨により挙兵し反乱軍となっていた。
 十四日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与えた(『百』)。ただし、後白河法皇は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』)。高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」(『玉葉』)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だったが、頼朝はあくまで義仲の排除を要求した。
⑧ 法住寺合戦
 閏十月十五日に木曾義仲が帰京した。(『玉葉』)
 二十日、義仲は頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを「生涯の遺恨」と抗議した(『玉葉』)。義仲は頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』)、志田義広の平氏追討使への起用を要求したが、後白河法皇は拒絶した。
 十一月四日、源義経の軍が不破の関にまで達した。この情報に力を得た後白河法皇は、七日、木曾義仲を除く源行家以下の源氏諸将に院御所を警護させた。
 十六日には、延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。行家は平氏追討のため不在だったが、後白河法皇は圧倒的優位に立ったと判断し、義仲に対して最後通告を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」というものだった(『玉葉』、『吉記』)。義仲から「君に背くつもりは全くない」という弁明があったが、十七日夜に八条院、十八日に上西門院と亮子内親王が御所を去り、入れ替わるように後鳥羽天皇・守覚法親王・円恵法親王・明雲が御所に入り、義仲への武力攻撃の決意を固めた。
 十九日、法住寺殿は木曾義仲軍の襲撃を受けた。院側は源光長・光経父子が奮戦したものの完膚なきまでに大敗し、後白河法皇は法住寺殿からの脱出を図るが捕らえられ、摂政・近衛基通の五条東洞院邸に幽閉された。
⑨ 法住寺合戦後
 寿永三年(一一八四年)一月、義仲は頼朝軍に敗れた。同年二月、源範頼・義経軍は一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅させた。元暦二年(一一八五年)義経軍は屋島を攻略、三月には範頼・義経軍が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。
東大寺を再建し、大仏開眼供養を行った。
 元暦二年(一一八五年)十一月、頼朝が政治介入し、北条時政が千騎の兵を率いて入京した。「守護・地頭」の設置が奏請された(『吾妻鏡』『玉葉』)。
 朝幕交渉に苦慮した。戦後復興と奥州合戦があった。
⑩ 頼朝上洛
 建久元年(一一九○年)十一月、ようやく頼朝との対面があった。頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛し、かつての平氏の本拠地・六波羅に新造された邸宅に入った。東国の兵を見るために多くの人々が集まり、後白河法皇も車を出して密かに見物した(『玉葉』『吾妻鏡』『百錬抄』)。
 後白河法皇と頼朝は院御所・六条殿で初めての対面を果たした。頼朝は右近衛大将に任ぜられたが、辞退して鎌倉へ帰った。
⑪ 崩御
 建久三年(一一九二年)三月、六条殿において六十六歳で崩御した。
頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。
⑫ 今様(流行歌)を愛好
 和歌は不得手だったが今様(流行歌)を愛好して『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。

 

二十二、以仁王・・・乱の火付け役

 

① 概要
 以仁王(もちひとおう、一一五一年・・治承四年五月)は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏などに平氏打倒の挙兵を促した。邸宅が三条高倉にあったので、三条宮、高倉宮と称された。
② 後白河天皇の第三皇子
 後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされる。母親は藤原季成の娘・成子。
③ 八条院(暲子内親王の猶子(養子)
 幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、応保二年(一一六二年)に最雲が亡くなり還俗(げんぞく)した。一一六五年に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院(暲子内親王の猶子(養子)となる。幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害により阻止されたという。
④ 親王宣下無し
 特に一一六六年、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった。
④ 治承三年の政変
 治承三年(一一七九年)十一月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉し、関白・松殿基房を追放し、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された。
⑤ 平氏追討の令旨
 治承四年(一一八○年)四月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。
 また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。五月、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」とされ、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使(けびいし)の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに参詣を装って脱出した。以仁王は園城寺(三井寺)に逃れた事が判明し、平氏は園城寺への攻撃を決定した。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていた。
⑥ 頼政と合流
 頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることが出来ず、また園城寺内でも親平氏派も多く、勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都(奈良)の寺院勢力を頼ることにした。
⑦ 最期
 治承四年(一一八○年)五月、頼政が宇治で防戦している間に以仁王は奈良の興福寺へ向かった。南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた(『玉葉』)。『平家物語』は、飛騨守景家の軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。
⑧ 東国生存説
 しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が世間に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。
⑩ 北陸宮(ほくろくのみや)
 第一王子は義仲のもとに逃れて、北陸宮として、その旗頭に奉じられた。第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗り仏門に入った。

二十三、源頼政・・・源三位頼政(げんざんみよりまさ)

 

① 概要
 源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人である。摂津源氏の源仲政の長男。朝廷で平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した公卿の従三位に叙せられたことから源三位頼政(げんざんみよりまさ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
② 従三位
 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位(じゅさんみ)に昇り公卿に列した。
③ 平氏打倒の挙兵
 だが、平氏の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の合戦に敗れ自害した。
④ 源 仲家(みなもと の なかいえ)
 源 仲家は、平安時代末期の河内源氏の武将。六条蔵人。帯刀先生・源義賢の嫡男。源義仲(木曾義仲)の異母兄。源頼朝・義経の従兄弟にあたる。
 久寿二年(一一五五年)、父・義賢が大蔵合戦で甥の源義平に襲撃され戦死すると、父と共に大蔵にいた二歳の異母弟・駒王丸(義仲)は逃れて中原氏に庇護される。
 母と共に京にいたと思われる仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となって京で成長した。朝廷の官職として八条院蔵人をつとめていた。
 治承四年(一一八○年)五月、以仁王と養父・頼政による挙兵計画が露見して、仁和寺にこもった際に、嫡男の仲光とともに馳せ参じた。のち以仁王らと奈良へ向かったが、五月十七日、宇治平等院のあたりで平家の追討軍に追いつかれて仲光ともども戦死した。
⑤ 墓所
 墓所は終焉の地である京都府宇治市の平等院。

二十四、斎藤実盛・・・駒王丸の恩人

 

① 概要
 斎藤 実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市妻沼)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。
② 大蔵合戦
 武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿二年(一一五五年)に義賢を急襲してこれを討ち取った。
③ 駒王丸
 実盛は再び義朝・義平父子の指揮下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。
④ 富士川の対陣
 保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承四年(一一八○年)八月に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の対陣において甲斐源氏や頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。
⑤ 北陸に出陣
 寿永二年(一一八三年)四月、再び平維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、倶利伽羅峠の合戦で敗北し、加賀国の篠原の合戦で敗北した。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
⑥ 最期
 この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく合戦たい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
 この篠原の合戦における斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として記述されている。

二十五、平清盛・・・武士政権の始まり

 

① 概要
 平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿である。平時忠(清盛の妻の兄)に「平家にあらざれば人に非ず」と言わせるほどの栄華を極めた。
② 平氏政権
 伊勢平氏の頭領・平忠盛の長男として生まれ、平氏頭領となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、一一六七年武士としては初めて太政大臣に任ぜられた。この頃、太政大臣は名誉職で、実務は内大臣や左大臣が担当した。清盛を政務から遠ざけようとした後白河天皇の陰謀とされる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。
③ 治承三年の政変
 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して娘の徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、以仁王の令旨により源氏などの平氏打倒の兵が挙がる中、翌治承五年(一一八一年)熱病で没した。
④ 清盛の遺言
 清盛の死亡した年の八月、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否した(『玉葉』)。
 『平家物語』には「清盛は死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残した」とある。
⑤ 殿下乗合事件
 清盛の非道を示す有名なエピソードである殿下乗合事件は、清盛が松殿基房に報復したというのは『平家物語』の虚構であり、『玉葉』や『百』の記述によれば、実際に非道な報復を行ったのは重盛であり、清盛はむしろ基房に謝罪したとされる。

二十六、平維盛・・・美貌の貴公子

 

① 概要
 平 維盛(たいらのこれもり)は、平安時代末期の平家一門の武将である。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男である。
 父重盛の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちた後に戦線を離脱、那智(なち)の沖で入水自殺した。
② 二大決戦で壊滅的な敗北
 平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。
 治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の対陣・倶利伽羅峠の合戦の二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。
③ 以仁王の挙兵
 治承四年(一一八○年)五月、以仁王の挙兵では大将軍として叔父・平重衡(しげひら)と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣された。同行した維盛(これもり)の乳母父で侍大将の伊藤忠清ら平氏家人の奮戦により、乱は鎮圧された。この際、忠清は兵を南都へ進めようとする重衡・維盛の勇み足を若い人は兵法を知らないと諫めて制止した。
④ 東国遠征
 源頼朝ら源氏の挙兵に対し、治承四年九月五日、維盛は東国追討軍の総大将となる。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の忠清で内輪もめとなり、結局出発は月末まで遅れた。出陣する二十三歳の大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったという。
 東海道を下る追討軍は、出発が伸びている間に各地の源氏が次々と挙兵し、進軍している情報が広まり、味方が集まらず、凶作で糧食の調達も困難であった。何とか兵員を増やしながら駿河国に到着した。
⑤ 富士川の対陣
 追討軍の到着を待って甲斐源氏(武田軍)討伐に向かった平氏側の駿河国目代は、富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗する(鉢田の合戦)。十月十七日、当時の戦闘の作法として武田軍が維盛の陣に送ってきた書状の「かねてよりお目にかかりたいと思っていました。幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいので、ここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という内容に伊藤忠清が激怒し、使者二人の首を斬った(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。十月十八日、富士川を挟んで武田軍と向き合う平氏軍は『平家物語』では七万の大軍となっているが、実際には四千騎程度で、逃亡や休息中に敵軍へ投降などで、残兵は千 -二千騎ほどであった。鎌倉の頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はなかった。
⑥ 富士川から敗退
 維盛は引き退くつもりはなかったが、伊藤忠清は再三撤退を主張、もはや士気を失った兵達もそれに賛同し、維盛は撤退を余儀なくされた。富士川の対陣から撤収の命が出た夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢はあわてふためき総崩れとなって敗走した。
⑦ 清盛激怒
 十一月、維盛はわずか十騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰った(『山』『玉葉』など)。清盛は維盛の醜態に激怒し、なぜ敵に骸(かばね)を晒(さら)してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥であるとして維盛が京に入る事を許さなかった。
 養和元年(一一八一年)閏二月、清盛が熱病で没した。三月、墨俣()すのまた川の合戦で叔父の重衡らと共に大将軍として、勝利を納めた。六月十日、右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれた。維盛はこの年の十二月に従三位になるが、公卿昇進は宗盛の長男・平清宗に一年遅れた。
⑧ 倶利伽羅峠の合戦
 寿永二年(一一八三年)四月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発した。平氏の総力を結集した総勢十万の軍勢が北陸に向かった。五月、倶利伽羅峠の合戦で義仲軍に大敗した。『玉葉』によると、四万の平氏軍で甲冑を付けていたのは四、五騎で平氏軍の過半数が死亡、残りは物具を捨てて山林に逃げたが討ち取られたという。平氏第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(伊藤忠清の子)らは一人の供もなく敗走した。敵軍(義仲軍)はわずかに五千、かの三人の侍大将と大将軍(維盛)らで権威を争っている間に敗北に及んだという。
⑨ 都落ち
 同年七月、平氏は都を落ちて西走する。『平家物語』の「一門都落ち」では、嫡男六代を都に残し、妻子との名残を惜しんで遅れた維盛とその弟たち重盛系一族の変心を、宗盛や知盛が疑うような場面がある。寿永三年(一一八四年)二月、維盛は一ノ谷の合戦前後、密かに陣中から逃亡する。『玉葉』によると、三十艘ばかりを率いて南海に向かったという。
⑩ 最期
 後に高野山に入り出家し、熊野三山を参詣して三月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けた後、沖に漕ぎだして補陀落渡海(ふだらくとかい、入水自殺)した(『平家物語』)。享年二十七。
 維盛入水の噂は都にも届き、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼む歌を詠んでいる。
⑪ 維盛の容貌
 『平家物語』には「容儀体配、筆にし難し」出陣する二十三歳の大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったという。九条兼実の『玉葉』にも「衆人中、容顔第一」とほめている。

 

倶利伽羅(くりから)峠・火牛

 

 (富山県小矢部市) 

 

 牛の角に松明を付けて追い上げたという。

二十七、源頼朝・・・鎌倉政権の初代

 

① 概要
 源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉政権の初代征夷大将軍である。
② 平治の乱
 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。十三才で従五位下・兵衛佐(ひょうえのすけ)に任命された。平治の乱で父・義朝が敗れると伊豆国へ流罪となった。
③ 挙兵
 約二十年後、伊豆で以仁王の令旨を受け、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げた。初戦には勝利したが、石橋山の合戦で敗退し、房総に逃れた。千葉方面の武将が従い数万騎の軍勢に増加した。武蔵の軍勢も加勢し、鎌倉を本拠として関東を制圧する。頼朝追討の平維盛の平家軍が関東に向かった。甲斐源氏軍が平家軍に反撃した。
 富士川の対陣に勝利するも深追いせず、鎌倉で関東の制圧と朝廷対策を講じた。
③ 義仲軍入京の功績の第一は頼朝、
 義仲軍が入京する前から朝廷工作を行い、義仲は頼朝の代官として派遣したと思わせた。義仲軍入京の功績の第一は頼朝、第二が義仲、第三が行家となった。
④ 十月宣旨
 その後も十月宣旨を受け、東海道、東山道の支配権を獲得した。これにより義仲に味方していた武将の内から頼朝に付く武将が増加した。
⑤ 法住寺合戦
 後白河法皇は義仲より優位になったと思い、法住寺御所に味方の武将や僧兵を集め、義仲に京都からの退去を命じた。義仲は反撃し、後白河法皇は閉じ込められた。
⑥ 木曽義仲・平家追討軍
 頼朝は弟の範頼や義経たちを代官として木曽義仲や平家追討軍を派遣し、義仲滅亡後、平家も滅亡させた。戦功のあった末弟・源義経を追放の後、義経追討の名目で全国に守護・地頭の設置を認めさせた。この守護・地頭が従来の支配者の領地を侵食し、武家支配の時代に変貌していく。
④ 征夷大将軍
 奥州合戦で義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久三年(一一九二年)に征夷大将軍に任じられた。従来、頼朝が「征夷大将軍」を望んでいたとされてきたが、頼朝は「大将軍」の肩書が望みだった。頼朝は以前、右近衛「大将」に任ぜられたが辞退していた。義仲が「征東」大将軍に、宗盛が「総官」に任じられた事があるので不快として「征夷使」が選ばれたようである。「征夷使・大将軍・源頼朝」である。
 これにより朝廷から半ば独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
⑤ 最期
 建久十年(一一九九年)五十三才で死去。前年末に相模川橋供養の帰路、落馬したのが原因という。
 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が執権(しっけん)として鎌倉政権の支配者となった。
六「頼朝の容貌」
 『平家物語』には「顔おおきに背低く。容貌優美にして、言語分明なり」、『延慶本』には「容顔悪しからず、顔大きにて少しひきぶとに見え、かんばせ優美に、言語分明にして」、『源平盛衰記』には「顔が大きく身長が高く、顔立ちが派手なつくりで、」とある。
 『玉葉』には「一一八三年(寿永二年)伝聞、頼朝の為体(ていたらく、風体)、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」とある。しかし、一一九一年(建久元年)頼朝と会見後に頼朝の容貌についての記述は無い。なんだ、普通のオヤジだと思ったか。もっとも両者共に四十代のオヤジである。
⑦ 頼朝の肖像画
 昭和の教科書に載っていた頼朝の肖像画は足利直義(足利尊氏の弟)ではないかとの説が有力である。
⑧ 頼朝の墓は「鎌倉の三大がっかりの一」
 頼朝の墓は頼朝の子孫と称する島津氏が江戸時代に建てたが、鎌倉の大仏の内部の見学と同様にがっかりするという。では三つ目は、その他。

二十八、源義経・・・判官贔屓(ほうがんびいき)

 

① 概要
 源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉政権を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
② 幼名を牛若丸
 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられたが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡(ひでひら)の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、宇治川の合戦(うじがわのかっせん)、一ノ谷、屋島、壇ノ浦(だんのうら)の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。
③ 意外に乱暴な義経軍
 宇治川の合戦(うじがわのかっせん)は、平安時代末期の寿永三年(一一八四年)一月に木曽義仲軍と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経軍とで戦われた合戦である。
 『平家物語・延慶本』によると「義経は、川端の民家を焼き払えと命じた。逃げ遅れた老人・女・病人などが焼け死んだ」という。また三草山の合戦の前に民家に火を点け松明がわりにした。
④ 頼朝と対立
 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けた事、平氏との合戦における独断専行により怒りを買い、この事に対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡(やすひら)に攻められ衣川館で自刃した。
 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を生んだ。
⑤ 「義経の容貌」
 『平家物語』には「九郎は色白う背小さきが、向歯の」、『延慶本』には「九郎は色白う背小さきが、向歯の」、『源平盛衰記』には「面長して身短く、色白して歯出たり」とある。これは義仲に味方した山本義経という武将と誤解したか。わざとデマを流したと推定されている。
 『義経記(ぎけいき)』には「九条院の常盤(ときわ)が腹にも三人有り。今若七歳、乙若五歳、牛若当歳子である。常盤と申すは日本一の美人なり。九条院は事を好ませ給ひければ、京中より容顔美麗なる女を千人召されて、その中より百人、又百人の中より十人、又十人の中より一人撰び出だされたる美女なり」とある。母が美人なら男子は美男かもしれない。『義経記(ぎけいき)』は室町時代に成立した物語なので主人公の義経は美男子となる。
⑥ 判官贔屓(ほうがんびいき)
 悲劇的英雄の判官の源義経に同情する気持ち。弱者・敗者に同情し声援する感情。
・ 判官・・・四等官の第三等官、特に衛府の尉(じょう)であって検非違使(けびいし)を兼ねる者。検非違使の尉であったところから、源義経の通称。
・ 四等官(しとうかん)・・・役所の四等級の官。長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)となる。
・ 衛府・・・御所の警備など、皇宮警察。
・ 検非違使・・・平安時代の警察官兼裁判官。(別当・佐・尉・志)
⑦ 後代の佳名(かめい、名声)を貽(のこ)す者か・・・兼実の感想
 文治元年十一月、義経が頼朝に追われ、京都から退去した時、九条兼実は義経について「義経大功を成し、その詮無しといえども、武勇と仁義においては、後代の佳名を貽(のこ)す者か、嘆美すべし、嘆美すべし」と称賛している。
⑧ 武蔵坊弁慶
 『吾妻鏡』には文治元年十一月に弁慶法師、武蔵坊弁慶という人物が義経に従ったとある。物語では弁慶は大活躍だが、『義経記』の創作と考えられる。
⑨ 静御前
 『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治二年(一一八六年)三月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られた。同年四月、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させたが、妻の北条政子が取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を絶賛している。
 この時、静は義経の子を妊娠していた。頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏七月、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師(母)が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。九月、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。

 

二十九、源範頼・・・頼朝の弟

 

① 概要
 源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄となる。
② 遠江(とおとうみ)国蒲御厨(かばみくりや、現静岡県浜松市)で生まれ育ったので蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季(のりすえ)に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。
③ 治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて木曽義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉政権において重きをなすが、後に頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。
④ 父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(一一六一年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。
⑤ 生母は『尊卑分脈』によれば、遠江国池田宿の遊女とされる。池田宿の有力者(長者)の娘とする説もある。
⑥ 治承四年(一一八○年)に挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はない。最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動し、遠江国を占拠した甲斐源氏の安田義定と協力関係にあったとされる。
⑦ 志田義広追討。
 寿永二年(一一八三年)二月、常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍した。その進軍に下野国の小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて史料(『吾妻鏡』)で確認される。
⑧ 義仲追討の大将軍
 寿永二年(一一八三年)末、頼朝の代官として木曽義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、寿永三年(一一八四年)一月、頼朝の代官として先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・瀬田の合戦に参加した。一月二十日、範頼は大手軍を率いて瀬田に向かい、義経は搦手軍を率いて宇治を強襲した。義経の京都強襲が成功すると義仲は今井兼平と合流し、北陸に逃亡をはかるが、事前に察知していた範頼軍は展開していた兵士で追跡し、甲斐源氏の一条忠頼が捕捉して、最終的に義仲を討伐した。
⑨ 一ノ谷の合戦、範頼は三河守、九州征伐
 寿永三年(一一八四年)二月五日に始まった一ノ谷の合戦では、範頼は大手軍を率いて進軍し、また義経は一万の搦手軍を率いて進軍した。 
 寿永三年(一一八四年)六月、範頼は戦功により三河守に任じられた
 寿永三年(一一八四年)八月、範頼は九州征伐の任を受ける。平氏軍の反撃により長期化した。
⑩ 屋島の合戦、壇ノ浦の合戦
 文治元年(一一八五年)二月、頼朝から出撃の命を受けた義経が屋島の合戦で勝利した。
 三月二十四日、壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。
 壇ノ浦合戦後、範頼は頼朝の命により、九州に残って神剣の捜索と平氏の残存勢力や領地の処分など、戦後処理にあたる。
 範頼は九月に頼朝に帰還の手紙を出し、海が荒れたため到着が遅れる旨を報告している。この範頼のこまめな報告ぶりも、頼朝に忠実であるとして評価され、逆に義経の独断専行ぶりを際だたせたという。十月、鎌倉へ帰還した範頼は、父・義朝の供養のための勝長寿院落慶供養で源氏一門の列に並び出席した。
⑪ 義経自害。
 義経は頼朝追討の挙兵に失敗し、同年十一月に都を落ちた。義経は奥州へ逃げ延びた後、文治五年(一一八九年)閏四月三十日、頼朝の命を受けた藤原泰衡による討伐軍の襲撃を受け、自害した。
⑫ 奥州合戦
 文治五年(一一八九年)七月、頼朝自ら出陣し、奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦においては、頼朝の中軍に従い出征した。多くの源平合戦に参加した範頼だが、これが最後の戦となった。
⑬ 頼朝上洛
 建久元年(一一九○年)十一月、頼朝の上洛に従い、頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめた。
⑭ 最期
 建久四年(一一九三年)五月、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。
 八月十七日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明。

 

三十、 平賀義信・・・頼朝の第一の家人

 

① 概要
 平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。信濃の住人。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖・源盛義。諱は義宣とも。
② 平治の乱
 信濃国・佐久郡・平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(一一五九年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣した。『平治物語』に平賀四郎義宣と記され、三条河原での合戦で奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぁ、源氏の武者は鞭さし(鞭を持って主人に従う者、小者)と言えども、勇猛でない者はいないのだ。惜しい兵士ではないか、平賀を討たせるな、義宣を討たせるな」と郎党達に救うように命じた。義朝が敗戦の後、東国への逃避行に付き随った七人の一人となる。
 尾張国・知多郡・内海の長田忠致館で義朝の最後を知った直後、逃亡に成功して生き延びた。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられる。
③ 頼朝、義仲が挙兵
 治承四年(一一八○年)、源頼朝が挙兵、遅れて木曽義仲が信濃で挙兵した。平家の全盛期は本拠地である信濃の佐久郡平賀郷にいたと考えられる。義仲は木曾から上州に移動した後に、佐久郡丸子町依田を拠点として養和元年(一一八一年)六月に横田河原の合戦に臨んだ。
 『玉葉』はこの合戦の反乱の信濃源氏軍を「木曽党」「サコ党」「武田之党(上野のミスか)」で構成されていると記しており、「サコ党」はすなわち佐久党と考えられ、佐久党の中には平賀氏が存在していたかもしれない。
④ 頼朝の指揮下へ
 最終的には義朝の遺児で前述の逃避行を共にした頼朝の指揮下に平賀氏は参じた。寿永二年(一一八三年)に頼朝が義仲を討つために軍を信濃に出陣し、義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組として和解したが、この時の頼朝軍は碓氷峠を越えて佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙した。この頼朝が義仲に対する優位性を確立した重要な争いにおいて、義仲が挙兵した場所であり、信濃における重要拠点の佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されたのは、佐久を本貫地とする平賀氏の力によると考えられる。
⑤ 武蔵守
 元暦元年(一一八四年)三月、子・惟義(これよし)が伊賀国の守護に任じられ、義信自身も同年六月に頼朝の推挙により「武蔵守」に任官し国務を掌握して、以後長きに渡って善政を敷いて国司の模範とされた。
 また文治元年(一一八五年)八月には惟義が相模守となり、鎌倉幕府の基幹国といえる両国の国司を父子で務めた。
⑥ 御家人筆頭
 文治元年(一一八五年)九月、勝長寿院で行われた源義朝の遺骨埋葬の際には、義信と惟義が源義隆の遺児・頼隆と共に遺骨に近侍した。義信への頼朝の信頼は最後まで変わらず、この時期の席次において源氏門葉として御家人筆頭の座にある。また頼朝の乳母の比企尼の三女を妻とし、二代将軍・源頼家の乳母父となる。
 建久四年(一一九三年)の曾我兄弟の仇討ちでは、妻の連れ子で義信の養子となった河津祐泰の遺児が事件の連座で自害した。
⑦ 頼朝死後
 正治元年(一一九九年)の頼朝死後も源氏一門の重鎮として重きをなした。行事交名を見ても、義信より上席だったのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、北条時政も常に義信の下座だった。これは義信が源氏一門(門葉)の首座にいたことを示す。
 建仁二年(一二○二年)三月、永福寺で頼家と北条政子が、頼家の乳母を務めた比企の尼三女の義信妻の供養を行った。
⑧ 比企能員(ひき よしかず)の変
 建仁三年(一二○三年)九月に起こった比企氏と北条氏の対立による比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ平賀氏は北条時政の婿である子の平賀朝雅(ひらが ともまさ)が北条氏側として比企氏討伐軍に加わった。乱後に三代将軍として擁立された源実朝(みなもと の さねとも)の元服の際には加冠役(烏帽子親)を務めた。
⑨ 没年
 没年ははっきりしないが、『吾妻鏡』の承元元年(一二○七年)二月に「故武蔵守義信入道」とあり、それ以前であることは確実である。

三十一、北陸宮・・・以仁王の王子

 

① 概要
 北陸宮(ほくろくのみや、永万元年(一一六五年) - 寛喜二年七年八日(一二三○年八月十七日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の皇族。木曽義仲軍に挙兵の正当性として奉じられていた。木曾宮・還俗宮・加賀宮・野依宮・嵯峨の今屋殿などと呼ばれる。後白河法皇の孫、後白河天皇の第三皇子の以仁王の子。
 母は八条院女房。弟に道尊がいる。
② 平家追討の令旨
 治承四年(一一八○年)五月、父以仁王が平氏との合戦で敗死すると、出家して乳母の夫・讃岐前司藤原重秀に伴われて越前国へ逃れた。以仁王の王子である宮には追っ手がかかる可能性があったが、九月には信濃国で以仁王の令旨をかかげた木曾義仲が挙兵。宮はその庇護を受けるかわりに、義仲軍の「錦の御旗」に奉じられた。
③ 北陸宮の南都脱出
 寿永元年五月十九日、比叡山の僧、永運は薩摩国に流罪。顕真は土佐国へ流罪。高倉宮の御子と伊豆の守中綱の子息を木曽義仲の基に遣わした罪という。北陸宮の南都脱出を手助けした延暦寺の僧の処分だろう(『源平盛衰記』)。
 七月二十九日、九条兼実の妻(藤原季行娘、良通・良経の母)は以仁王の後見人を務めていた。兄の讃岐前司藤原重季が、南都に潜んでいた以仁王の遺児を連れて北陸道に脱出したという(『玉葉』)。
 八月十一日には、藤原重季が北陸宮を連れて越前国府に入った(『玉葉』)。
④ 越中国宮崎に御所
 義仲は越中国宮崎(富山県朝日町)に御所をつくらせ、そこで宮を還俗、元服させた。同時にこの知らせには鎌倉の源頼朝も動揺し、これに対抗して意図的に「以仁王は生存しており鎌倉で匿われている」という流言を広めた。
⑤ 義仲軍入京
 寿永二年(一一八三年)七月、平家を都落ちさせた義仲の軍勢がついに入京を果たした。しかしこの軍中に北陸宮の姿はなく、宮はこの頃加賀国に滞在していた。義仲は俊堯(しゅんぎょう)僧正(そうじょう)を介して北陸宮を天皇の世継ぎにと後白河法皇に推挙したが、法皇はこれに耳を傾けることもなく八月二十日に安徳天皇の異母弟・四ノ宮を皇位に即けた(後鳥羽天皇)。北陸宮は九月十八日に、京都に入り、法皇とともに法住寺殿に身を寄せていたが、義仲が法住寺合戦に踏み切る前日の十一月十八日に逃げ去り、その後行方知れずとなった(『玉葉』)。
⑥ 最期
 宮が再びその姿をみせるのは二年後の文治元年(一一八五年)十一月のことで、頼朝方の庇護のもとに帰洛を果たしている(『玉葉』)。
 法皇に賜源姓降下を願ったが許されず、その後、嵯峨野に移り住んで中御門宗家の女子を室に迎えた。後に土御門天皇の皇女を養女にし、持っていた所領の一所を譲ったという。寛喜二年(一二三○年)七月八日薨去(こうきょ)。

三十二、藤原基房・・・元関白

 

① 概要
 松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。正式には藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。藤原忠通の五男。松殿家の祖。松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。
② 関白松殿
 保元元年(一一五六年)八月、元服すると同時に正五位下に叙任され、翌月に左近衛少将に任ぜられた。翌年八月には従三位、権中納言となる。その後も内大臣、右大臣、左大臣などの高官を歴任し、兄の近衛基実が早世すると、その息子である近衛基通が幼少のため、六条天皇の摂政に就任した。仁安三年(一一六八年)二月、六条天皇が高倉天皇に譲位すると、引き続いて摂政を務め、嘉応二年(一一七○年)十二月には太政大臣、承安二年 (一一七二年)十二月には関白となった。 
③ 治承三年の政変クーデター
 治承三年(一一七九年)二月に北政所である忠雅女が皇太子・言仁親王の養母となった。これは基実正室の盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例に倣ったことと、基房と平家の連携を図った後白河法皇の意図であったとされるが、清盛からは基房が基通から摂関家当主の地位を奪おうとしていると反発を受けた。続いて盛子と平重盛が死去すると、基房はその遺領を清盛に何の相談も無く、後白河法皇と謀って没収するという反平氏的政策を打ち出した。これに清盛は激怒して同年十一月、軍を率いて上洛し、クーデターを起こす。直ちに反平氏的公卿と見なされて解官されたうえ、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。 途中備前国で出家する事で同地滞在を許された。その後の治承四年(一一八○年)十二月になって、罪を許された。
④ 木曽義仲の上洛
 清盛の死後、平氏が急速に衰退して寿永二年(一一八三年)に木曽義仲の攻勢の前に都落ちすると、基房は義仲と連携して清盛時代に失った権勢を取り戻そうと画策した。
⑤ 師家を摂政・内大臣
 そして同年十一月、法住寺合戦に勝利した義仲の勢力を背景にして息子の師家を後鳥羽天皇の摂政・内大臣にまで昇進させた。
 しかし、寿永三年(一一八四年)一月に義仲が源義経らによって討たれると、基房は政界から引退することを余儀なくされ、師家も罷免された(ただし長男の隆忠は建暦元年(一二一一年)まで左大臣)。
⑥ 最期
 その後は朝廷における行事など、形式的な儀礼などに関わるだけの長老として顔を出すだけだったが、公事・故実に通じた博識として後世まで重んじられた。寛喜二年(一二三○年)十二月二十八日、八十七歳の長寿をもって薨去。法号は中山院、または菩提院。

三十三、藤原師家・・・短命の摂政

 

① 概要
 松殿 師家(まつどの もろいえ、)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。摂政関白松殿基房の三男。正二位・摂政・内大臣。通称は松殿摂政(まつどの せっしょう)。
② 八歳の権中納言
 母方の花山院家は後白河法皇・平清盛の双方と繋がりがあり、両者の勢力均衡の上に立って影響力を保持していた。そのような政治事情を背景に、師家は三男ながら正嫡の扱いを受けており、治承三年(一一七九年)にはわずか八歳にして権中納言に昇任した。これは基房の意を介した法皇の意向であったが、かねてより法皇側近グループの動きに不信感を強めていた清盛の反発を招き、同年におけるいわゆる「治承三年の政変」の契機の一つとなった。この結果、基房・師家父子は解任され、いったんは失脚の憂き目を見る。基房に代わる関白として、親平家派の公卿である近衛基通(基房の甥)が勢威を得た。
③ 十二歳の摂政・内大臣
 四年後の寿永二年(一一八三年)、平家西走と木曽義仲の上洛という局面を迎えると、基房は失地回復のための行動に打って出る。同年十一月、わずか十二歳の師家を従二位・摂政・内大臣・藤原氏長者の地位につけることに成功し、基通から摂関家内部における主導権を奪還した。
④ 義仲が滅亡
 翌年一月、源範頼・義経らと戦って義仲が滅亡すると、基房一族は再び失脚した。師家は在任わずか数ヶ月にしてその地位を失って退隠し、以降半世紀近くに渡り官に復することはなかった。

 

三十四、義高と大姫・・・悲劇の物語

 

① 概要
 源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す。木曾義高とも。木曽義仲の嫡男。母は中原兼遠の娘。諱(実名)は文献によって異なる。「義高」は『吾妻鏡』の記述による。『尊卑分脈』には「義基」、『平家物語』には「義重」とある。
② 義仲挙兵
 寿永二年(一一八三年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、三月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が十一歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。
③ 人質として鎌倉へ
 義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。義高と大姫は又従兄妹になる。同年七月、義仲は平氏を破って入京した。しかし義仲は北陸宮を天皇に推挙したため、後白河法皇とも対立し、法住寺合戦が起こる。頼朝は都に源範頼と源義経を代官として義仲追討軍を派遣し、寿永三年(一一八四年)一月、義仲は宇治川の合戦で追討軍に敗れ、粟津の合戦で討たれた。
④ 鎌倉を脱出
 父・義仲が討たれた。人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化した。四月二十一日、頼朝が義高を誅殺しようとしたので、大姫は義高を密かに逃がそうとした。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出した。夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。
⑤ 最期
 義高は四月二十六日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。享年十二。
 神奈川県鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。
⑥ 義高の残党
 五月一日(六月十日)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。
⑦ 大姫の嘆き
 義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏した。母の政子は義高を討ったために大姫が病になったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、六月二十七日、光澄は晒し首にされた。なんじゃこりゃ。
⑧ 海野幸氏や望月重隆はその後も頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となった。

 

三十五、海野幸氏・・・義高に随行

 

① 概要
 海野 幸氏(うんの ゆきうじ)は、鎌倉時代初期の御家人で、信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる海野氏の当主。『保元物語』や『平家物語』などに登場する海野幸親の三男で、鎌倉時代初期を代表する弓の名手として知られる。「滋野系図」では海野幸広の子とされる。
② 義高に随行
 治承四年(一一八○年)、信濃国佐久郡依田城で挙兵した木曾義仲に父や兄らと共に参陣。寿永二年(一一八三年)、義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行した。
③ 義高殺害
 元暦元年(一一八四年)木曾義仲が滅亡した。その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げた。そして義高が死罪が免れないと察して鎌倉を脱出する際、同年であり、終始側近として仕えていた幸氏は、義高の寝床に入って身代わりとなって義高を逃がした。結局、義高は討手に捕えられて殺された。
 幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えた。
④ 弓の名手
 御家人となった幸氏は、弓の名手として『吾妻鏡』に何度も登場する。
 文治六年(一一九○年)には、頼朝の射手として鶴岡八幡宮の弓始めに金刺盛澄らと共に参加した。
 建久二年(一一九一年)、頼朝が大壇那となって再建された善光寺の落慶に供奉した。
 建久四年(一一九三年)五月の頼朝による富士の巻狩では、藤沢二郎、望月三郎(重隆)、祢津二郎らとともに弓の名手と記述される。
 建久六年三月(一一九五年)の頼朝上洛の際は住吉大社での流鏑馬で東国の代表者として重隆と共に参加した。
 嘉禎三年(一二三七年)七月にも執権北条泰時の孫時頼に流鏑馬を指南、更に鶴岡八幡宮で騎射の技を披露し、周囲の者達から「弓馬の宗家」と讃えたと伝わっている。
 建仁元年(一二○一年)源頼家の御前での的始儀の射手に中野能成らと共に選ばれた。当時の天下八名手の一に数えられ、武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称された。
⑤ 武将としても活躍
 武将としても活躍した。建久四年(一一九三年)の曾我兄弟の仇討ちの際には、頼朝の護衛役を務め負傷した事が『吾妻鏡』に記述されており、建仁元年(一二○一年年)の建仁の乱、建暦三年(一二一三年)の和田合戦や承久三年(一二二一年)の承久の乱にも出陣した。
⑥ 上州西部へと拡大
 仁治二年(一二四一年)三月の『吾妻鏡』によると、甲斐国守護の武田信光と、上野国三原荘(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)と信濃国長倉保(現在の軽井沢町付近)の境界についての争いがあり、幸氏が勝訴している。この記述から、幸氏の代に海野氏の勢力が、信濃から上州西部へと拡大していたことが判る。
⑦ 最期
 幸氏の死期については、確かな記録は無い。建長二年(一二五○年年)三月の『吾妻鏡』に、幸氏と思われる「海野左衛門入道」の名が登場するのが、記録の最後となった。

 

三十六、武田信義・・・独自挙兵の甲斐源氏

 

① 概要
 武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の甲斐源氏の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏四代当主、武田氏の初代当主。
② 大治三年(一一二八年)八月十五日、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延六年(一一四○年)、十三歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改めた。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。
③ 以仁王の令旨
 治承四年(一一八○年)四月、以仁王の令旨に応じ、信濃国伊那郡へ出兵して平家方の菅冠者を討つ。その後、安田義定ら甲斐源氏の一族は甲斐・石和御厨(笛吹市石和町)に集結し、挙兵した(『山槐記』)。このとき信義は五十三歳であった。その後、駿河国に進出して駿河目代・橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠した(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の対陣にも参戦した。『吾妻鏡』によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にした。
④ 駿河守護
 その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、木曽義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。その中、甲斐源氏の分裂し、弟の加賀美遠光とその次男・小笠原長清、信義の子・石和信光は頼朝に接近し、安田義定は平家を打ち破って都に進撃する義仲とともに東海道から都に上洛し、その功により「遠江守」に任官した。やがて木曽義仲と頼朝が対立関係となると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を選択し、その後も武田軍は源範頼、源義経と共に義仲の追討・一ノ谷の合戦・平家追討山陽道遠征・壇ノ浦の合戦に参加した。
⑤ 頼朝の切り崩し
 それと同時期に甲斐源氏は自分と同格の武家の棟梁の存在を排除、屈服させるという頼朝の障害となった。養和元年(一一八一年)には、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされた。
 元暦元年(一一八四年)六月十六日、子の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺された。その一条忠頼殺害の前後に木曽義高残党討伐という名目で頼朝は甲斐信濃に出兵した。また土肥実平より上位にあるという書状を送った子の板垣兼信に対して頼朝が実平優位を示す返書を出すということもあった。その一方で頼朝に味方する加賀美遠光に対しては「信濃守」任官を朝廷に申請するなど厚遇した。このように、親和策と弾圧をそれぞれの一族が個別に受けた結果、挙兵時には頼朝や義仲と同格であった甲斐源氏は鎌倉殿の御家人扱いへ転じた。
⑥ 最期
 『吾妻鏡』に文治二年(一一八六年)三月九日、享年五十九で病没したとあるが、建久元年(一一九○年)の頼朝上洛の隋兵に武田信義の名があり、建久五年(一一九四年)の東大寺造営や小笠懸の射手に信義の名が見られることから、文治二年(一一八六年)以降も信義が生存している可能性が濃厚であるとの指摘もある。
⑦ 家督は五男の信光が継いだ。墓は山梨県韮崎市神山町鍋山の願成寺にある

 

三十七、安田義定・・・武田信義と挙兵

 

① 概要
 安田 義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の甲斐源氏の武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。
 安田氏は甲斐国山梨郡八幡荘内の安田郷を本貫地とする。平安後期に甲斐源氏は甲府盆地の各地に進出した。
② 以仁王の令旨
 治承四年(一一八○年)四月、後白河法皇の皇子・以仁王は平家追討の令旨を発し諸国の源氏などに挙兵を促すが、『吾妻鏡』によれば以仁王の令旨は伊豆国の源頼朝から甲斐・信濃方面へ伝えられ、同年四月末から五月初めまでに、甲斐源氏の元へも伝えられたとみられる。
 平家方に対して挙兵した伊豆国の頼朝は八月二十三日の石橋山の合戦で敗退し、八月二十五日には平家方の俣野景久、駿河目代の橘遠茂が甲斐へ攻め込み、甲斐源氏方では安田義定らが出兵し、富士北麓の波志田山において景久らを撃退しており(波志田山合戦)、その経緯を記した『吾妻鏡』が義定の初見資料となる。
③ 信濃国への侵略
 このときは甲斐源氏の棟梁である武田信義や一条忠頼らは参加していないが、信義や忠頼らは九月初頭には信濃国への侵略を開始した。同年十月には駿河国に侵攻する信義らと共に橘遠茂らと合戦勝利した。その後黄瀬川で頼朝の軍と合流し、十月二十日に頼朝・甲斐源氏の軍勢が平家方の平維盛の追討勢を撃破した富士川の対陣では信義とともに敵の背後を襲撃したという(『吾妻鏡』)。
④ 信義を駿河国守護
 甲斐源氏の一族は富士川対陣での戦功により頼朝から信義を駿河国守護に、義定も遠江国守護になったという。『吾妻鏡』に見られる「守護」補任記事について、『吾妻鏡』以外の記録史料を総合すると甲斐源氏の一族は頼朝の指揮下ではなく独自の勢力であったとみられ、富士川対陣においては敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方を占拠し、『吾妻鏡』の守護補任記事は甲斐源氏の戦功を頼朝が後日容認したものとされる。
⑤ 義定は遠江国守護
 義定は遠江国府・鎌田御厨を占拠し、同年十二月には蒲御厨を拠点に在地支配を行っている。義定は遠江において平家方と対峙しており、養和元年(一一八一年)二月には平家方の平通盛の尾張国侵攻に際して頼朝に軍勢の派遣を要請し、頼朝は和田義盛を遠江へ派遣した。また、三月遠江において義定は橋本辺の陣地構築に非協力であったという浅羽・相良両氏や、在地支配を廻る伊勢神宮・熊野神社との訴訟を起こした(『吾妻鏡』)。
⑥ 木曾義仲と上洛
 寿永二年(一一八三年)には木曾義仲が信濃・越後の軍勢を率いて北陸道から上洛した。義定も平家追討使として東海道から上洛した(『愚管抄』)。義定ら源氏の諸将は洛中の警備を命じられ、義定は京中の守護をした。後白河法皇は平家一門の官職・所領を没収して源氏諸将に分配し、義定も同年八月十日には従五位下遠江守に叙任した。
⑦ 寿永二年十月宣旨
 都では後白河法皇と木曾義仲の反目が顕在化し、法皇は頼朝に上洛を促すと頼朝は法皇に要請して寿永二年十月宣旨が発布された。頼朝はこの宣旨により義仲や甲斐源氏に対して優位の態勢を整え、翌寿永三年に源範頼・義経の義仲追討軍が上洛すると義定は義経の軍勢に加わり、元暦元年(一一八四年)一月には宇治川の合戦で義仲を滅亡させた(『吾妻鏡』)。
⑧ 頼朝の指揮下
 元暦元年(一一八四年)、一ノ谷の合戦では、義経の搦め手軍に属し、平経正、平師盛、平教経を討ち取る(『吾妻鏡』)。
 文治五年(一一八九年)七月の奥州合戦にも武田信光らと従軍した。
 文治六年(一一九○年)一月には後白河法皇から京都伏見稲荷社、祇園八坂神社の修理の遅れや、六条殿造営公事の怠慢を責められ下総守に転任された。
 翌建久二年(一一九一年)三月には従五位上に昇叙し、遠江守に遷任(げんにん)し、義定は皇室守護と遠江国浅羽荘(静岡県袋井市)の地頭も兼ねた。また、息子・義資も越後守となる。
 鎌倉で義定の屋敷は頼朝館に隣接する鎌倉大倉に存在したと伝わり、同年三月に行われた鶴岡八幡宮の法会では、参拝する頼朝の御供の筆頭に義定の名が見られる。
⑨ 安田義資が斬罪
 甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されたが、建久四年(一一九三年)十一月に義定も子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、十二月義定も所領を没収された。同時に遠江国守護職も解職となった。
⑩ 最期
 翌建久五年(一一九四年)八月、義定は謀反の疑いで梟首された(永福寺事件)。享年六十一。(『吾妻鏡』)。
 山梨市上井尻の雲光寺には安田一族の墓所とされる大五輪塔群がある。

三十八、一条忠頼・・・武田信義と挙兵

 

① 概要
 一条 忠頼(いちじょう ただより)は、平安時代末期の甲斐源氏の武将。甲斐源氏の武田信義の嫡男。甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏と名乗った。
② 甲斐源氏が挙兵
 治承四年(一一八○年)八月、武田信義を棟梁とする甲斐源氏が挙兵する。九月、甲斐源氏は隣国である信濃の平氏家人や駿河目代を攻撃して勢力を拡大し、十月には平氏が送り込んだ追討軍を富士川の対陣で撃破して、駿河・遠江を制圧した。
③ 諏訪攻撃
 『吾妻鏡』における忠頼の初見は九月十日の諏訪攻撃の記事で、兼信・有義・信光ら他の兄弟よりも早い。内乱前は任官歴があり、源氏の通字「義」を継いだ有義が嫡流だったと思われるが、内乱期は忠頼が甲斐源氏の中心として活躍する。
  富士川の対陣の後、忠頼はしばらく史料から姿を消すため詳しい動向は不明だが、父の代理として新たに勢力圏となった駿河の在地支配を行っていたと考えられる。
④ 木曾義仲入京
 寿永二年(一一八三年)七月、木曾義仲は京へ進撃して平氏を西国へ追いやった。『愚管抄』はこの時に「東国の武田」も入京したとするが、『吉記』の京中守護諸将の中に信義・忠頼父子の名はなく、甲斐源氏は安田義定のみである。遠江を実効支配して半ば自立していた義定は独自の判断で入京したと思われるが、これは甲斐源氏の結束が弱まり一枚岩ではなくなっていたことを示すものといえる。義仲は治安回復の遅れ・皇位継承問題への介入・法住寺合戦による後白河法皇の幽閉などで孤立し、翌寿永三年(一一八四年)正月二十日、源範頼・義経軍の攻撃で敗死した。
⑤ 義仲追討戦
 『吾妻鏡』正月二十日には「一条次郎忠頼已下の勇士、諸方に競ひ走り」とあり、忠頼が軍勢を率いて義仲追討戦に参加した。特に粟津の合戦では都落ちした木曾義仲軍を撃破し、追い詰めた。しかし、続く一ノ谷の合戦では安田義定は『吾妻鏡』に範頼・義経と同格の扱いで記載されているが、忠頼の名はない。京都に留まって治安維持の役割を担っていたか。
⑥ 忠頼暗殺
 平氏の屋島への撤退により軍事的脅威はひとまず去り、一部の残留兵力を残して遠征軍の大半は東国に帰還した。忠頼もこの時に東国に戻ったと思われる。それからまもなく六月十六日、鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に、頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。
⑦ 一条氏の家督
 一条氏の家督は、頼朝に協力した弟・信光の次男である一条信長が継承した。忠頼は一条郷のうち一条小山に居館を構え、後に時宗寺院の一蓮寺が創建された。
⑧ 忠頼謀殺の背景
 『吾妻鏡』は忠頼殺害の理由について「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」(六月)と書くだけである。
 朝廷は寿永二年十月宣旨を下したが、これ以上の大幅な権限委譲は避けたかった。交渉の結果、後白河法皇は平家没官領を頼朝に与え、三月の除目で正四位下に叙した。
⑨ 『吾妻鏡』寿永三年五月は義仲の遺児・源義高誅殺を受けて、その与党追討のために鎌倉から軍勢が発向した記事であるが、下総以外の鎌倉政権下の国の御家人が召集されるなど残党狩りにしては規模が大きく、しかも足利義兼・小笠原長清の軍勢は甲斐に進攻している。『延慶本平家物語』にある安田義定の甲斐下向の記事も合わせると、忠頼謀殺と同時に開始された甲斐源氏制圧のための軍事行動とも考えられる。

 

三十九、土岐光長・・・美濃源氏

 

① 概要
 源 光長(みなもと の みつなが)は、平安時代末期の美濃源氏の武将。源光信の子。土岐光長とも記される。通称は「出羽判官」。
② 生涯
 美濃源氏の豪族土岐氏の惣領となり[一]、平氏政権下においても源氏の流れを汲む在京の武者として検非違使、左衛門尉を務めた[二]。治承四年四月に検非違使、右衛門少尉であった(『山槐記』同年四月一五日条)。
③ 以仁王による挙兵
 治承四年(一一八○年)五月、以仁王による挙兵の企てが露見し間もなく王に配流の命が下されると源兼綱と共に検非違使庁の兵を率いて三条高倉邸に追捕に向かった(以仁王の挙兵)。しかし源頼政の知らせを受け王はすでに逃げ出しており、代わりに邸に居た家人の長谷部信連と合戦[三]となり、信連および家司、女官らを捕縛した(『吾妻鏡』)。
④ 反平家
 その後、美濃・近江両国で起きた平家に対する大規模な反乱では光長ら美濃源氏もその中心的存在として蜂起し、翌養和元年(一一八一年)、近江を鎮圧した後に美濃へと攻め込んだ追討軍に敗れ「居城」を落とされる(美濃源氏の挙兵・近江攻防)。そして同年三月には反乱への加勢により解官された(『尊卑分脈』)。
⑤ 義仲に従い入京
 寿永二年(一一八三年)七月、北陸道より進軍した木曾義仲に従い入京し、八月の除目で伯耆守に任じられる。しかし、義仲と後白河法皇の関係が悪化すると院方に付き、同年十一月の法住寺合戦では多田行綱らと共に院方の主力として御所の防衛に当たったが、激闘の末に子の光経共々討ち取られ梟首された。その後、土岐氏の惣領は三男・光衡が継承した。

四十、 村上信国・・・信濃源氏

 

① 概要
 村上 信国(むらかみ のぶくに、生没年未詳)は、平安時代末期の武将。清和源氏頼清流。源為国(村上判官代)の子。兄弟に道清、基国、宗実、経業、惟国、世延(安信?)、宗信らがあり、子に信実がある。母は信西女。仮名は太郎。官位は従五位下、右馬助(『尊卑分脈』)。
② 義仲に従い上洛
 治承・寿永の乱に際して信濃国内で挙兵した木曾義仲に従い上洛し[一]、京中守護軍の一人として都の警護の任にあたった。
③ 法住寺合戦
 その後、義仲との関係は不和になったものとみられ、法住寺合戦を経た寿永二年(一一八三年)十二月に同じく京中の守護に名を連ねた葦敷重隆や源有綱といった武将らと共に解官されている(『吉記』)。以後の詳しい動向は不明。

四十一、葦敷重隆・・・尾張源氏

 

① 概要
 葦敷 重隆(あじき しげたか、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。清和源氏満政流。葦敷重頼の次男[一]。浦野重遠の孫。源重隆とも記される。
② 義仲上洛に佐渡守
 尾張国を地盤とした豪族山田氏の一族であり、同国春日井郡安食荘を本拠とした。山田氏は治承・寿永の乱でその当初から一門を挙げて反平家勢力に加わっており、重隆は寿永二年(一一八三年)七月の木曾義仲上洛に際し同族の高田重家や山田重忠らと共に入京、その後は源氏諸将の一人として京中守護の任に就き、翌八月の勧賞で先祖に所縁の官職である佐渡守に任ぜられた。
③ 法住寺合戦
 しかし間もなく義仲と後白河法皇・源氏諸将の対立が深刻化すると、なかでも重隆は「武士では殊に意趣を結ぶ」と記されるほどであり義仲との折り合いは非常に悪かったことが窺える(『玉葉』同年閏十月)。十一月の法住寺合戦では多田行綱や源光長らと共に院方として戦い、翌十二月に義仲の意向で佐渡守を解官される(『中臣祐重記』同年十一月十九日条、『吉記』同年十二月)。
④ 義仲滅亡後
 義仲滅亡後の平家との戦闘では詳細な動向を伝える史料はないものの、源範頼の軍勢が九州遠征の途上で苦戦していた翌寿永三年(一一八四年)十月に長門国内に駐在する「源氏葦敷」なる武将が平教盛の軍勢と交戦し敗れたとの記述が『玉葉』にみえていることから、鎌倉方に加わり西国を転戦した可能性が高いと考えられる(同書同年十月十三日条)。
⑤ 平家滅亡後
 平家滅亡後は御家人の列に加わり美濃国内の地頭職などを務めたが、文治六年(一一九○年)四月、美濃の公領 を妨げたとして源頼朝に訴えられ、同年(建久元年)八月に朝廷より常陸国への配流を命じた官符が下される(『吾妻鏡』)。しかし、これを幕府の陰謀によるものと捉え共に配流の官符を下されていた高田重家や板垣兼信らと同様配所には赴かずにいたところ、十一月に美濃の墨俣付近で捕らえられ連行されたとある(『玉葉』『吾妻鏡』)。その後配所へ移送されたかは不明であるが、建久三年(一一九二年)六月に頼朝が美濃国内の地頭らに対し大番役の忠勤を命じた書状の中で重隆のみが名指しされているのが確認できる(『吾妻鏡』同年六月)。
⑥ 最期
 重隆ら山田氏の一門は美濃・尾張という京と鎌倉を結ぶ交通の要所に勢力を有した上、伝統的に朝廷との繋がりも深く鎌倉とは距離を置く(あるいは非協力的な)傾向にあったことから頼朝の粛清の対象にされたものと考えられている。

 

四十二、 城長茂と坂額御前・・・巴のモデル

 

① 概要
 城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての越後国の武将。初めは助茂で後に長茂に改称した。越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟。治承四年九月、信濃の市村の合戦で義仲方に敗れた村山頼直が越後の城四郎長茂の陣へ逃げた。(以下『吾妻鏡』による)
② 城長茂が城郭
 寿永元年九月二十八日、城長茂が越後国小河庄赤谷に城郭を構えた。
③ 横田河原の合戦
 治承五年(一一八一年)六月、城長茂が越越後の守の兄資元の跡を継いで、源義仲を攻撃した。木曽義仲と信濃国千曲川の辺りで合戦となり、長茂は敗走した。
④ 頼朝の御家人となる
 文治四年九月、城長茂は平家一族として関東に背き、囚人として梶原景時に預けられた。梶原景時がとりなして御家人に召し加えるよう申し上げ、頼朝は認めた。
⑤ 永福寺の建築工事に参加
 建久三年六月、頼朝が永福寺の建築工事を視察した。畠山次郎や城四郎らが梁や棟を引いた。
⑥ 城長茂反乱
 建仁元年(一二○一年)二月、城長茂が小山朝政の宿所を包囲した。
 二月二十二日、城長茂は吉野の奥で誅殺された。二十九日、城長茂の一味が誅殺された。
⑦ 「坂額(はんがく)御前」・・・ 城長茂の妹。
 建仁元年(一二○一年)四月、城長茂の甥の城小太郎資盛が、越後国で反乱を起こした。五月、資盛の叔母、坂額御前が活躍したが、生け捕りになり、資盛は敗北した。六月、坂額御前が連行された。六月、阿佐利与一義遠が坂額御前を預かりたいと申し上げた。阿佐利は坂額を得て、甲斐国に下向したという。(以上『吾妻鏡』による)
⑧  巴御前
 『源平盛衰記』の巴御前が和田義盛の妻となり、子を生んだという話に似たお話である。どちらが実話なのか。

四十三、 多田行綱・・・日和見の見本

 

① 概要
 多田 行綱(ただ ゆきつな/源 行綱、みなもと の ゆきつな)は、平安時代末期の武将。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の多田頼盛の長男。官位は従五位下・伯耆(ほうき、鳥取県中西部)守。
 摂津(せっつ、大阪府北西部、兵庫県南東部)国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏の嫡流。
② 鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀
 当初、藤原忠通の下で侍所の雑務職として摂関家に近侍したが、後に後白河法皇の北面武士に加えられる。そして、安元三年(一一七七年)の鹿ケ谷の陰謀では院近臣の藤原成親らから反平家の大将を望まれるが、平家の強勢と院近臣の行動から計画の無謀さを悟り平清盛にこれを密告し、関係者多数が処罰された。事件後、『尊卑分脈』によれば行綱自身も陰謀に加担したとして安芸国に流刑とされるが、その真偽は不明である。ただし、この密告の史実については疑わしいとする説もある。
③ 治承・寿永の乱
 鹿ケ谷の陰謀以降、平家に属していたとされるが、治承・寿永の乱では、木曾義仲の快進撃と呼応する形で寿永二年(一一八三年)七月二十二日にはに摂津・河内の両国で挙兵し反旗を翻した。そして行綱の軍勢は摂津河尻で平家の船を押さえるなどして都に上る物流を遮断し、入京を目前に控えた義仲や安田義定、足利義清、源行家らと共に京都包囲網の一翼として平家の都落ちを促したが、これには摂津・河内両国の衆民(在地勢力)が悉く協力したとの記述が『玉葉』にある。
 続く二十四日には、摂津国内の武士・太田頼資(頼基の父)が行綱の下知により河尻で都に上る粮米などを奪ったほか民家に火をかけた。これらの行動は平家に大きな打撃となり都落ちを決定付ける要因の一つとなる。そして翌二十五日に平家が西国に向けて都落ちすると、二十六日には朝廷が平親宗を遣わし行綱に安徳天皇と三種の神器の安全のために平家を追討しないよう命じる御教書を下した。
④ 法住寺合戦
 義仲入京後の動向は文献に見えず不明だが、間もなく義仲と後白河法皇の関係が悪化すると院方に付き、同年十一月の法住寺合戦では子息と共にその主力として院御所の防衛に当たる。義仲軍の猛攻により官軍が壊滅すると多田荘へ逃れ自領に篭り義仲軍に反抗した(『玉葉』)。
⑤ 一ノ谷の戦い
 義仲の敗亡後は源頼朝方につき、寿永三年(一一八四年)二月の一ノ谷の戦いでは源義経軍の一翼・多田源氏の棟梁として活躍した。
 『玉葉』によれば一ノ谷の戦いにおいて、行綱は山方から攻め、真先に山手を陥落させたとある。
 しかし鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には行綱の活躍がみえておらず、これは後に行綱が頼朝から追放されたこととの関係が指摘されている。
⑥ 所領を没収
 平氏滅亡後の元暦二年(一一八五年)六月、頼朝に多田荘の所領を没収され行綱自身も追放処分となった。この原因には一ノ谷の戦い以降、義経と結んでいた事や、清和源氏の嫡流を自認する頼朝が先祖・源満仲以来の本拠地である多田荘を欲したと考えられる。
⑦ 義経の都落ち
 追放から五ヶ月後の文治元年(一一八五年)十一月、頼朝と対立した義経の一党が都落ちすると豊島冠者らと共にこれを摂津河尻で迎え撃った(河尻の戦い)。この行動は追放処分により失った多田荘を回復するためと考えられるが、その後も処分は解かれなかった。以後の消息は不明。

四十四、登場人物は実在したか

 

① 概要
 真田幸村も真田十勇士も実在しなかった。真田幸村は江戸時代の作者が、真田信繁の活躍を読み物や芝居にするとき、徳川幕府に遠慮して真田幸村と名付けて創作したという。真田十勇士は明治・大正時代の立川文庫という出版社の創作である。
② 「木曽義仲」と「源行家」
 「木曽義仲」と「源行家」は『平家物語』以外の『吾妻鏡』、『玉葉』、『吉記』、『愚管抄』にも登場するので、ほぼ間違いなく実在したといえる。
③ 木曽四天王
 木曽四天王の「今井四郎、樋口次郎、根井行親、楯六郎」は『平家物語』以外の『吾妻鏡』』、『愚管抄』にも登場するのでやはり実在したといえる。
「志田義広」は『吾妻鏡』『玉葉』にも登場するのでやはり実在したといえる。
③ 巴、山吹、葵
 「巴」は『平家物語』や『源平盛衰記』にのみ登場する。
 『平家物語』に「巴・山吹という二人の便女(召使、美女)を連れてきた」、『平家物語・延慶本』に「木曽は幼少より同様に育ちて」、『源平盛衰記』に「木曽殿の乳母子の仲三権頭の娘巴、義仲の妾」とある。
④ 「山吹」は『平家物語』にのみ登場する。「葵」は『源平盛衰記』にのみ登場する。『吾妻鏡』、『玉葉』、『吉記』、『愚管抄』には登場しない。
「巴」、「山吹」、「葵」は実在かどうかは疑問である。

 

四十五、木曽義仲の子孫

 

① 概要
 『吾妻鏡』によると、義仲の長男の義高は寿永二年(一一八三年)三月から頼朝への人質として鎌倉にいたが、寿永三年一月(一一八四年三月)義仲滅亡後、鎌倉から脱出したものの、埼玉県の入間川当たりで、討ち取られた。
② 婚姻の制度
 現代のような厳格な一夫一婦制では無い。正妻、妾の区別は無い。一夫多妻も多い。義仲の父・義賢にも数人の妻がいた。祖父の為義にも数人の妻がいて男子だけで十人もいる。家督を継ぐ嫡子は親が決めた。長男優先ではない。義仲には巴・山吹その他の数人の妻がいたので、数人の子供が逃げ隠れて生存した可能性はある。
③ 義仲の子孫
 各地に義仲の子孫を称する家がある。戦国時代に木曽を支配した木曽氏は木曽義仲の子孫を称したが、藤原氏を称した時期もあり、疑問視する研究者もいる。

四十六、関東の武士団

 

① 伊豆(いず、静岡県)・・・伊東、北条、狩野、河津、
② 相模(さがみ、神奈川県)・・・三浦、渋谷、大庭、波多野、土肥、海老名
③ 武蔵(むさし、東京、埼玉)・・・秩父、江戸、河越、畠山、比企、児玉、猪俣、村山、横山、熊谷、
④ 下総(しもふさ、千葉)・・・葛西、千葉、下河辺
⑤ 上総(かずさ、千葉)・・・上総介一族
⑥ 下野(しもつけ、栃木県)・・・小山、宇都宮、足利
⑦ 上野(こうずけ、群馬県)・・・新田、渋河、里見
などがいる。現在の市町名になっているものもある。

 

四十七、北陸の武士団

 

① 越中・・・野尻,河上、石黒、宮崎
② 加賀・・・富樫、林、井家、津波多
③ 能登・・・土田、日置
④ 越前・・・稲津、平泉寺長吏斎明伊儀師
などがいる。

第四章 史料編

 

一、『平家物語』・・・作者不明の軍記物語

 

① 概要
 「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひびき)あり。沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうじゃひっすい)の理(ことわり)を顕(あらわ)す。奢(おご)れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」の名調子で始まる有名な軍記物語である。中学・高校の国語の教材として採用される事も多い。「木曽最期(きそのさいご)」も人気があるようだ。
② 軍記物語
 『平家物語(へいけものがたり)』は、鎌倉時代に成立したとされる平家の清盛一門の栄華と没落を描いた軍記物語である。
 保元の乱・平治の乱に勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の合戦から平家の滅亡を追うなかに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を描いている。平易で流麗な名文として知られる。多くの登場人物のなかの主役は平清盛、木曽義仲、源義経である。
③ 数十種類の異本
 成立年代不明。数十種類の異本がある。盲目の琵琶法師が琵琶を奏でながら語り、口伝により伝えられた。後に覚一検校(かくいちけんぎょう)が口伝をまとめた「覚一」本や、文書で伝わる「延慶(えんぎょう」)本が著名なものである。
④ 作者不明
 鎌倉末期に成立した吉田兼好(よしだ けんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』によると、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたという。
 「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古(けいこ)の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり」(『徒然草』二二六段)
 生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したこと、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べている。
 この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司(けいし、いえのつかさ)で中山(藤原氏)中納言顕時(あきとき)の孫である下野守藤原行長と推定される。
⑤ 史実との関係
 物語である以上、そこには虚構、ないしは史実との違いも認められる。盲目の琵琶法師が琵琶を奏でながら語ったという。聞く人に興味を持たれなければならない。大袈裟になり、作り話が入る。聴衆や権力者に不利な内容は語れない。
 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語は現代の歴史小説のようなもので、事実かどうか疑問である。木曽義仲や今井兼平の最期は寿永三年正月二十一日となっているものがある。玉葉によると二十日が正しい。
 また軍勢の数は大袈裟になっており、数倍から十倍になっていると見てよい。

 

二、『源平盛衰記』・・・『平家物語』の拡大版

 

① 概要
 『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。四十八巻。著者不明。読み本系統に分類される。
平家物語が作られた百年後に創作が追加され文書量は増大した。
 二条天皇の応保年間(一一六一年)から、安徳天皇の寿永年間(一一八三年)までの二十年余りの源氏、平家の盛衰興亡を百数十項目にわたって詳しく叙述する。
② 『平家物語』の異本のひとつ
 軍記物語の代表作の一つとされる。『平家物語』を元に増補改修されており、源氏側の加筆、本筋から外れた挿話が多い。その冗長さと加筆から生じる矛盾などを含んでおり、文学的価値は『平家物語』に及ばないとされるが、「語り物」として流布した『平家物語』に対し、「読ませる事」に力点を置かれた盛衰記は「読み物」としての様々な説話が豊富である。「延慶(えんぎょう」)本と類似の記述が多い。

三、『吾妻鏡』・・・鎌倉政権の歴史書

 

① 概要
 『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉政権が編纂した。源平合戦の約百年後に成立したので、執権となった北条氏に有利なように記述されている。
② 鎌倉政権の正史
 『吾妻鏡』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉政権の初代将軍・源頼朝から第六代将軍・宗尊親王まで六代の将軍記という構成で、治承四年(一一八○年)から文永三年(一二六六年)までの幕府の事績を編年体で記す。
③ 成立時期
 成立時期は鎌倉時代末期の一三○○年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全五十二巻(ただし第四十五巻欠)と言われる。
④ 北条得宗家
 編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述である事や、編纂当時に残る記録、伝承などの編纂である事に注意は必要である。鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。
 木曽義仲は征夷大将軍に任命されたと記述しているが、『玉葉(ぎょくよう)』や『山塊記』によると、どうやら征東大将軍のほうが正しいようである。

 

四、『玉葉』・・・九条兼実の日記

 

① 概要
 『玉葉』(ぎょくよう)は、十八才で右大臣となった九条兼実(一一四九年・・・一二○七年)の日記である。
② 兼実の日記。
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、右大臣・九条兼実の日記。
 『玉葉』は兼実の公私にわたる記録であり、その記述は一一六四年から一二○○年に及ぶ。
③ 後白河法皇や清盛から敬遠
 九条兼実は摂政・藤原忠通の六男として生まれる。十八才で右大臣となったが、当時の権力者の後白河法皇や清盛から敬遠されていた。朝廷の行事や人事異動は朝廷の書記官を兼ねていた部下や公家から聞き記録したので正確なようである。その他の人の伝聞の記録も多い。
 この時期は院政から武家政治へと政治体制が変動した時期と重なり、源平の争乱についても多数の記述がある。このことから、平安時代末期から鎌倉時代初期の研究を行う上での基礎史料とされる。
④ 『吾妻鏡』
 なお、同時期の史料には『吾妻鏡』もあるが、これは約百年後に鎌倉政権とりわけ北条氏の立場で編纂された正史に近いものである。一方、九条兼実は関白や太政大臣を歴任した朝廷側の大物であり、『玉葉』は朝廷側の史料と言える。そのことから『玉葉』と『吾妻鏡』は相補的に用いられることが多い。
⑤ 有職故実(ゆうそくこじつ)
 また当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作など(=有職故実)を後世に伝える目的も帯びていた。『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されている。
⑥ 兼実の孫・九条道家の没後、元本は一条家に伝えられた。九条家に伝わるものは写本である。
⑦ 注目の記事
「有名無実の風聞」
・寿永二年七月二十一日「十二時頃、追討使が出発した。三位中将資盛()すけもりが大将軍となり、肥後(ひご)の守貞能(さだよし)を引率し、私の家の近くの東小路を経て、多原方へ向かった。家の者達が蜜々に見物した。その軍勢は千八十騎という。確かに之を数えたという。かねてから、世間の噂では七・八千騎、または一万騎になるという。しかるにその軍勢の実情を見ると、わずか千騎である。有名無実の風聞、これをもって察すべしか。」
・有名無実・・・名ばかりで、それに伴う実質のないこと。
「義仲の評価」
・寿永二年十一月十七日、法住寺合戦の前「義仲の勢はわずかといえども勇なり」
・十一月十八日、法住寺合戦の前「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
・十一月十九日、法住寺合戦の後「義仲は不徳の君(後白河法皇)を戒める天の使い」
・寿永三年一月二十日、義仲最期の報を聞いたとき、「天は逆賊を罰した。もっともなことである」、「義仲が天下を執ってから六十日が経った。(平治の乱の)信頼(のぶより)の前例に比べてその期間は長かった」。

五、『吉記』・・・吉田経房の日記

 

① 概要
 『吉記(きっき)』は、平安時代末期の公家・吉田経房(つねふさ)(一一四二年 - 一二○○年)の日記。
② 吉田権中納言
 吉田経房は勧修寺流藤原氏(俗に日記の家と呼ばれる)。権右中弁藤原光房の子で、京都の東郊・吉田に別邸があり、「吉田権中納言」と呼ばれ、吉田家の祖となった。『吉記』は、吉田の姓から後の人が経房の日記を呼んだ。
③ 吉田経房の日記
 『吉記』は、内乱期の吉田経房が蔵人頭(くろうどのとう)・院別当として、朝廷の決定を詳しく知ることの出来る立場にあり、同じ内容の記事でも、まだ朝廷で中心的な立場になる前の九条兼実の『玉葉』より詳細な事実を知る事が出来る箇所もある。
 ・蔵人頭(くろうどのとう)・・・令外官の役職で、蔵人所の実質的な長。
 ・院別当・・・院司の最高責任者。
 ・院庁は上皇の家政機関として設置され、所務・雑務が主要な用務であった。長官は別当(べっとう)、
④ 断続的な史料
 仁安元年(一一六六年)から建久四年(一一九三年)まで二十八年分が記録されていたというが、原本は現存せず、写本(ほとんどは子孫の甘露寺親長の収集した書写)や他の書に引用された佚文(いつぶん)を合わせても、断続的に十三年分が残るのみである。「日記の家」勧修寺流の他の公家の日記と同様、朝廷の儀式・典礼などに関する記事が詳しい。またいわゆる源平合戦(治承・寿永の乱)の時代を含むため、同時期の朝廷の動きを知る上でも貴重な史料である。
⑤ 注目の記事
 寿永二年七月二十六日「比叡山の僧兵等が京に下った。路地での乱暴は数えきれないほどだ。落ちて行った平家武士の縁故の家と言って放火し、或るいは追捕(ついぶ、官軍としての取り立て)や物取りといいふらした。人家で一棟完全な所は無くなった。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。私の邸宅はこの災難を免れた。ひとえに神様仏様の恩恵である(平家軍の退却後、市民や僧兵の放火・略奪が始まった)」。

 

六、『山塊記』・・・中山忠親の日記

 

① 概要
 山槐記(さんかいき)は、中山忠親(なかやま ただちか)の日記。中山 忠親(天承元年(一一三一年) - 建久六年三月)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿で内大臣を務めた。書名の「山槐」とは忠親の家号「中山」と、大臣家の唐名(槐門)を合わせたものに由来する。現存する伝文によれば、記載時期は仁平元年(一一五一年)から建久五年(一一九四年)までの四十年間あまりである。詳細な記事が多いが、欠失部分も多い。
② 内大臣忠親
 忠親は後白河法皇や源頼朝に重用され、日記の現存期間は平氏の興隆から全盛、滅亡の時期にあたる。平氏政権時代から治承・寿永の乱での東国情勢などについて独自の記事も多く、重要史料として扱われる。保元の乱・平治の乱の記事は欠けているが、治承二年(一一七八年)の安徳天皇誕生、治承四年(一一八○年)の即位、元暦元年(一一八四年)の後鳥羽天皇の即位と大嘗会(だいじょうさい)の記事は細かく、忠親が朝儀や政界の情勢に通じていたことが分かる。
 ・大嘗会(だいじょうさい)・・・天皇の即位後、天皇自らが初めて新穀を神々に供える祭事。
③ 史実との相違
 平重盛の出家、清盛による大輪田泊の改修、以仁王の挙兵、富士川の対陣などにおいて、『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語とは異なる記述があり、史実との相違を示している。
 

七、『愚管抄』・・・僧・慈円の歴史書

 

① 概要
 『愚管抄(ぐかんしょう)』は、鎌倉時代初期の天台宗僧侶の慈円(じえん)の史論書である。全七巻。承久の乱の直前、朝廷と鎌倉政権の緊張が高まった時期の承久二年(一二二○年)頃成立したが、承久の乱後に修訂が加えられた。
② 僧侶慈円
 初代・神武天皇から第八十四代・順徳天皇までの歴史を、貴族の時代から武士の時代への転換と捉え、末法思想と「道理」の理念とに基づいて、仮名文で述べたものである。慈円は朝廷側の一員であるが、源頼朝の政治を道理にかなっていると評価している。また、慈円自身の父である藤原忠通が父(慈円にとっては祖父)藤原忠実と不仲であった事を暗に批判したり、同母兄弟である九条家流を持ち上げて異母兄弟である近衛家流を非難するなど、摂関家の一員としての慈円本人の複雑な事情も見える。
③ 注目の記事・・・武者の世(むさのよ)
・武者の世・・・「保元元年、日本国始まって以来の反乱ともいうべき事件が起こって、それ以後は武者の世(むさのよ)になってしまった。」

八、『尊卑分脈』・・・初期の系図集

 

① 概要
 『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は初期の系図集。姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成。一部信憑性に欠ける部分もある。
② 編者
 編者は洞院公定(とういん きんさだ)で、主に永和三年(一三七七年)から応永二年(一三九五年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集が行われた。室町時代以降、広く増補改訂され、異本が多く、三十巻本・二十巻本・十四巻本が流布した。
③ 藤原・源の両氏に詳しい
 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘(げんぺいとうきつ)のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重な史料である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級の史料とされる。
④ 信憑性に欠ける部分。
 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名が無い、また逆に実在が疑わしい人物の記載があるなど、年代的に疑問の部分もある。例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り。一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。

九、『保元物語』・・・保元の乱の軍記物語

 

① 概要
 『保元物語(ほうげんものがたり)』は、鎌倉時代の軍記物語。源為朝の活躍を中心に保元の乱の一部始終を和漢混交文で描いたもの。
② 作者不明。
 『保元物語』の成立に関しては、わかっていることは少ない。治承年間の記事を含むので、それ以降である。ただ、『愚管抄』に保元の乱についての話が「少々アルトカヤウケタマハレドモ、イマダ見侍ラズ」とあること、また永仁五年(一二九七年)成立の『普通唱導集』に「平治・保元・平家の物語」が琵琶法師によって語られたことが記されている。
③ 保元の乱
 史実との関係は、『保元物語』は保元の乱を題材とした軍記物語であるが、物語である以上、そこには虚構、ないしは史実との違いも認められる。
 保元の乱に関する史料としては、『兵範記(へいはんき)』『愚管抄』『百錬抄』『帝王編年記』などがある。とくに『兵範記(へいはんき、ひょうはんき)』は乱に実際かかわった平信範(たいら の のぶのり)の日記であり、信憑性はきわめて高い。また、『愚管抄』は成立自体はすこし下るが、乱にかかわった源雅頼の日記を手控えとして利用しており、史料として利用出来る。

 

十、『平治物語』・・・平治の乱の軍記物語

 

① 概要
 『平治物語(へいじものがたり)』は、鎌倉時代の軍記物語。平治の乱の一部始終を和漢混交文で描いたもの。
② 作者は不詳。
 『平治物語』については、成立・作者に関しては、確かな資料は少ない。成立に関して、源頼朝の死(正治元年・一一九九年)に関する記事があるので、これ以降かもしれない。
③ 平治の乱
 平治元年(一一五九)後白河上皇方の最大の武力勢力であった平清盛が熊野参詣に出かけた隙を狙って、かねてから藤原通憲(信西)と後白河上皇をめぐって権力争いを起こしていた藤原信頼が、保元の乱での賞与などで平家の圧迫に不満を覚えていた源義朝を誘って挙兵した。後白河上皇を大内裏で監禁し、通憲(信西)を殺害し一度は権力を握った。しかし熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑され、義朝や義平も殺された。
④ 平治の乱以後
 平治の乱以後の平家政権の全盛や没落、鎌倉政権の成立などまでを描いた諸本も多い。諸本によって内容に異同は大きいが、悪源太義平(源義平)の武勇談や、源義経の母である常盤(ときわ)御前(常葉とも)が、老いた母のために清盛のもとへ赴く悲話が中心を占めている。『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容である。

 

第五章 演習問題百問

 

一. 義仲が任命された官職で最も正しいのはどれか
① 朝日将軍 ② 旭将軍 ③ 征夷大将軍 ④ 征東大将軍 
    
二. 義仲が任命された官職で正しくないのはどれか
① 左馬頭 ② 京都守護 ③ 征東大将軍 ④ 伊豆守  

 

三. 義仲の誕生地はどこか
① 京都 ② 長野県 ③ 群馬県 ④ 埼玉県   

 

四. 義仲の成長地はどこか
① 京都 ② 埼玉県③ 群馬県 ④ 長野県   

 

五. 義仲の父は誰か
① 源義朝 ② 源義家 ③ 源為義 ④ 源義賢   

 

六. 義仲の父を討ったのは誰か
① 源為義 ② 源義家 ③ 源義朝 ④ 源義平  

七. 義仲の母は誰か
① 巴御前 ② 山吹御前 ③ 葵御前 ④ 小枝御前  

 

八. 義仲の妻でないのは誰か
① 巴御前 ② 山吹御前 ③ 葵御前 ④ 常盤御前 

  

九. 義仲の養父は誰か
① 斎藤実盛 ② 樋口兼光 ③ 今井兼平 ④ 中原兼遠 

 

十. 義仲の四天王でないのは誰か
① 樋口兼光 ② 根井行親 ③ 今井兼平 ④ 斎藤実盛 

 

十一. 義仲は誰の命令で挙兵したか
① 平清盛 ② 源頼政 ③ 源頼朝 ④ 以仁王   

  

十二. 義仲と同じ頃に挙兵したのは誰か
① 平清盛 ② 源頼政 ③ 以仁王 ④ 源頼朝  

 

十三. 義仲の挙兵地はどこか
① 京都 ② 埼玉県 ③ 群馬県 ④  長野県  

 

十四. 富士川の合戦の平家軍の大将は誰か
① 平清盛 ② 平重盛 ③ 平忠盛 ④ 平維盛  

 

十五. 富士川の合戦の地はどこか
① 愛知県 ② 千葉県 ③ 神奈川県 ④ 静岡県 

  

十六. 横田河原合戦の地はどこか
① 京都 ② 埼玉県 ③ 群馬県 ④ 長野県  

 

十七. 横田河原合戦での木曽義仲の敵は誰か
① 源頼朝 ② 源頼政 ③ 以仁王 ④ 城氏  

 

十八. 横田河原合戦で活躍したのは誰か
① 源義経 ② 源範頼 ③ 源頼朝 ④ 井上光盛 

  

十九. 倶利伽羅峠の合戦の平家軍の大将は誰か
① 平清盛 ② 平重盛 ③ 平忠盛 ④ 平維盛 

 

二十. 倶利伽羅峠の合戦の地でないのはどこか
① 石川県 ② 富山県 ③ 小矢部市 ④ 新潟県  

 

二十一. 『平家物語』によると倶利伽羅峠の合戦の平家軍は何騎か 
① 三万騎 ② 四万騎  ③ 五万騎 ④ 十万騎 

 

二十二.『平家物語』によると倶利伽羅峠の合戦の義仲軍は何騎か 
① 五千騎 ② 二万騎  ③ 三万騎 ④ 五万騎 

 

二十三. 『玉葉』によると倶利伽羅峠の合戦の平家軍は何騎か 
① 三万騎 ② 十万騎 ③ 五万騎 ④ 四万騎  

 

二十四.『玉葉』によると倶利伽羅峠の合戦の義仲軍は何騎か  
① 五万騎 ② 二万騎  ③ 三万騎 ④ 五千騎 

 

二十五. 兵糧調達のため乱暴したのは誰か
① 頼朝軍 ② 義仲軍  ③ 義経軍 ④ 平家軍   

 

二十六 .火牛の計の元の話はどこか
① 日本 ② ローマ ③ 朝鮮 ④ 中国  

   

二十七. 元祖火牛の計では牛の角に何を付けたか
① 松明 ② 矢  ③ わら ④ 剣     

 

二十八 篠原の合戦地は何処か
① 長野県 ② 富山県 ③ 新潟県 ④ 石川県  

 

二十九 篠原の合戦で討たれたのは誰か
① 平清盛 ② 平重盛 ③ 平維盛 ④ 斎藤実盛 

 

三十. 比叡山にある寺は何か
① 東大寺 ② 三井寺 ③ 清水寺 ④ 延暦寺   

 

三十一. 僧兵とは何か
① 武士 ② 尼僧 ③ 僧侶 ④ 警備員 

  

三十二. 僧兵の別名でないのは何か
① 大衆 ② 衆徒 ③ 僧侶 ④ 衆人    

 

三十三. 『玉葉』によると平家軍千八十騎はうわさによると約何騎か。
① 二千騎 ② 五千騎 ③ 六千騎 ④ 一万騎  

 

三十四. 平家軍と共に西国へ行ったのは誰か
① 北条時政 ② 後白河法皇 ③ 源頼朝 ④ 安徳天皇 

 

三十五. 比叡山へ逃れたのは誰か
① 安徳天皇 ② 北条時政 ③ 平維盛 ④ 後白河法皇 

 

三十六. 平家軍が京都にいる時、京都市内の治安維持(警察)の担当は誰か。
① 無し ② 衛門府 ③ 近衛府 ④ 平家軍 

   

三十七. 平家軍が京都から退却した時、京都市内の治安維持(警察)の担当は誰か。
① 衛門府 ② 平家軍 ③ 近衛府 ④ 無し  

 

三十八. 『吉記』によると義仲軍が入京前に乱暴したのは誰か
① 義経軍 ② 義仲軍 ③ 頼朝軍 ④ 京都市民と僧兵   

 

三十九. 『愚管抄』によると平家屋敷に火事場泥棒に入ったのはは誰か
① 義経軍 ② 義仲軍 ③ 頼朝軍 ④ 京都の物取り

  

四十. 義仲と同時に入京した武将は誰か
① 源義経 ② 北条時政 ③ 源頼朝 ④ 行家

  

四十一. 義仲が任命された官位はどれか
① 四位 ② 従五位 ③ 五位 ④ 従五位下   

 

四十二. 義仲が任命された官職で正しくないのはどれか
① 左馬頭 ② 京都守護 ③ 征東大将軍 ④ 伊豆の守 

 

四十三. 義仲が新天皇に推挙したのは誰か
① 安徳天皇 ② 以仁王 ③ 後鳥羽天皇 ④ 北陸宮 

 

四十四. この頃、即位した天皇は誰か
① 安徳天皇 ② 以仁王 ③ 北陸宮 ④ 後鳥羽天皇 

 

四十五. 『平家物語』によると新天皇は何で決めたか
① 会議 ② 法皇の独断 ③ 義仲の推挙 ④ 占い 

  

四十六. 『玉葉』によると新天皇は何で決めたか
① 会議 ② 義仲の推挙 ③ 占い ④ 法皇の独断 

 

四十七. 猫間殿とは誰か
① 九条兼実 ② 吉田経房 ③ 中山忠親 ④ 藤原光隆 

 

四十八. 猫おろしとは何か
① 猫をおろす ② 猫またぎ ③ 猫おどし ④ 食べ残し 

 

四十九 松茸を食べる国はどこか
① アメリカ ② 中国 ③ カナダ ④ 日本   

 

五十. 中国人が松茸を食べないのは何が気に入らないか
① 味 ② 色 ③ 形 ④ 臭い     

 

五十一. 水島合戦の地はどこか
① 広島県 ② 大坂府 ③ 兵庫県 ④ 岡山県  

 

五十二. 水島合戦で起きた自然現象は何か
① 大波 ② 月食 ③ 台風 ④ 日食   

 

五十三. 福隆寺縄手の戦いの地はどこか
① 広島県 ② 大坂府 ③ 兵庫県 ④ 岡山県  

 

五十四. 福隆寺縄手の戦いで、木曽義仲軍の敵は誰か
① 源義経 ② 北条時政 ③ 源頼朝 ④ 妹尾兼康  

 

五十五. 十月宣旨を発行したのは誰か
① 安徳天皇 ② 源頼朝 ③ 平清盛 ④ 後白河法皇  

 

五十六. 十月宣旨を与えられたのは誰か
① 源義仲 ② 源義経 ③ 源範頼 ④ 源頼朝  

 

五十七. 十月宣旨により与えられた支配権の及ぶところはどこか
① 北陸道 ② 山陽道 ③ 南海道 ④ 東山道 

  

五十八 『平家物語』によると法皇と義仲の間の使いは誰か
① 九条兼実 ② 吉田経房 ③ 俊堯僧正 ④ 平知康 

 

五十九 『玉葉』によると法皇と義仲の間の使いは誰か
① 九条兼実 ② 平知康 ③ 吉田経房  ④ 静賢法印 

 

六十 天台座主(比叡山延暦寺の長)は誰か
① 九条兼実 ② 慈円 ③ 吉田経房 ④ 明雲僧正 

 

六十一. 法住寺合戦で「今井兼平が火矢を放った」と記述しているのはどれか
① 『玉葉』 ② 『吉記』 ③ 俗説 ④ 『平家物語』 

 

六十二. 法住寺合戦で「法住寺が焼け落ちた」としているのはどれか
① 『玉葉』 ② 『吉記』 ③ 『平家物語』 ④ 俗説 

 

六十三. 法住寺合戦で「河原の民家が燃えた」と記述しているのはどれか
① 俗説 ② 『吉記』 ③ 『平家物語』 ④ 『玉葉』 

 

六十四. 法住寺合戦で「周囲の民家に放火した」と記述しているのはどれか
① 『玉葉』 ② 俗説 ③ 『平家物語』 ④ 『吉記』

 

六十五. 『愚管抄』によると、法住寺合戦で「義仲はある者の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てさせた」という。ある者は誰か
① 後白河法皇  ② 平知康 ③ 源光長 ④ 天台座主・明雲 

 

六十六. 法住寺合戦での義仲の敵は誰か
① 平清盛 ② 源頼政 ③ 源頼朝 ④ 後白河法皇  

 

六十七. 法住寺合戦の後、義仲に協力したの誰か
① 吉田経房 ② 九条兼実 ③ 中山忠親 ④ 藤原基房 

 

六十八. 法住寺合戦の後、内大臣に任命されたの誰か
① 藤原基房 ② 九条兼実 ③ 中山忠親 ④ 藤原師家 

 

六十九. 法住寺合戦の後、義仲が任命された官職はどれか
① 左馬頭 ② 京都守護 ③ 征夷大将軍 ④ 院御厩別当 

 

七十.  法住寺合戦の後、義仲が辞退した官職で正しいのはどれか
① 征夷大将軍 ② 京都守護 ③ 院御厩別当 ④ 左馬頭

 

七十一.  法住寺合戦の後、義仲は大将軍に任命された。どれか
① 征夷大将軍 ② 朝日将軍 ③ 旭将軍 ④ 征東大将軍 

 

七十二.  法住寺合戦の後、義仲は○○大将軍に任命された。義仲の敵は誰か
① 平家軍 ② 藤原秀衡 ③ 後白河法皇 ④ 源頼朝  

 

七十三.  逆賊(天皇に逆らった者)でないのは誰か
① 源頼朝  ② 足利尊氏 ③ 徳川家康 ④ 楠正成  

 

七十四.  騎馬武者一騎の編成標準はどれか
① 馬一、人一 ② 馬五、人五 ③ 馬十、人十 ④ 馬二・三、人二・三 

 

七十五.  宇治川の合戦のとき、川端の家を焼き払ったのは誰か
① 平家軍 ② 義仲軍 ③ 範頼軍 ④ 義経軍 

 

七十六.  この時代の婚姻制度はどれか
① 一夫一婦  ② 特に規制無し ③ 正妻と妾 ④ 一夫多妻 

 

七十七  義仲の妻は何人いたか
① 一人  ② 二人 ③ 三人 ④ 三人以上  

 

七十八  義仲の子は何人いたか
① 一人  ② 二人 ③ 三人 ④ 三人以上 

 

七十.九 巴御前は騎馬武者である。騎馬武者の主要武器は何か
① 薙刀 ② 刀 ③ 槍 ④ 弓矢    

 

八十. 山吹御前の亡くなった地の伝説はいくつあるか
① 四 ② 六 ③ 八 ④ 十以上     

 

八十一. 義仲最期の日は寿永三年一月二十日である。太陽暦では何日か。
① 一月二十日 ② 二月二十日 ③ 三月二十日 ④ 三月四日  

 

八十二. 木曽義仲の墓がないのはどこかか。
① 義仲寺 ② 徳音寺 ③ 法観寺 ④ 林昌寺  

 

八十.三 義仲寺の義仲の墓の隣は誰の墓か。
① 今井兼平 ② 樋口兼光 ③ 源義経  ④ 松尾芭蕉  

 

十八.四 平家物語の作者は誰か
① 九条兼実 ② 吉田経房 ③ 中山忠親 ④ 作者不明 

 

八十五. 平家物語とは何か
① 随筆 ② 日記 ③ 歴史書 ④ 軍記物語  

 

八十六. 吾妻鏡の作者は誰か
① 九条兼実 ② 吉田経房 ③ 中山忠親 ④ 北条氏 

 

八十七. 吾妻鏡とは何か
① 軍記物語 ② 日記 ③ 随筆  ④ 歴史書 

 

八十.八 玉葉の作者は誰か
① 北条氏 ② 吉田経房 ③ 中山忠親 ④ 九条兼実 

 

八十九. 玉葉とは何か
① 軍記物語 ② 随筆 ③ 歴史書 ④ 日記   

 

九十. 九条兼実の在職期間の長いのはどれか
① 太政大臣 ② 内大臣 ③ 左大臣 ④ 右大臣  

 

九十.一 九条兼実の最高位はどれか
① 右大臣 ② 内大臣 ③ 左大臣 ④ 太政大臣 

  

九十.二 吉記の作者は誰か
① 九条兼実 ② 北条氏 ③ 中山忠親 ④ 吉田経房  

 

九十.三 吉記とは何か
① 軍記物語 ② 随筆 ③ 歴史書 ④ 日記   

 

九十四. 吉田経房の最高位はどれか
① 右大臣 ② 太政大臣 ③ 左大臣 ④ 権大納言   

 

九十.五 山塊記の作者は誰か
① 九条兼実 ② 吉田経房 ③ 北条氏 ④ 中山忠親 

 

九十.六 山塊記とは何か
① 軍記物語 ② 随筆 ③ 歴史書 ④ 日記   

 

九十.⑦ 中山忠親の最高位はどれか
① 右大臣 ② 太政大臣 ③ 左大臣 ④ 内大臣  

 

九十八. 愚管抄の作者は誰か
① 北条氏 ② 吉田経房 ③ 中山忠親 ④ 慈円 

  

九十九. 愚管抄とは何か
① 軍記物語 ② 日記 ③ 随筆 ④ 歴史書   

 

百 尊卑分脈とは何か
① 軍記物語 ② 随筆 ③ 歴史書 ④ 系図集  

 

百一 尊卑分脈の作者は誰か
① 九条兼実 ② 吉田経房 ③ 中山忠親 ④ 洞院公定 


答は全て④です。

 

「参考文献」

 一、『訓読玉葉』   高橋貞①    高科書店
 二、『玉葉精読』   高橋秀樹    和泉書院
 三、『全訳吾妻鏡』  永原慶二監修  新人物往来社
 四、『現代語訳吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館
 五、『吾妻鏡・玉葉データベース』 福田豊彦監修 吉川弘文館
 六、『新訂吉記二』  高橋秀樹    和泉書院
 七、『愚管抄全註解』 中島悦次    有精堂
 八、『愚管抄全現代語訳』 大隅和雄  講談社
 九、『古代文化』六十三号 「木曽義仲の畿内近国支配と王朝権威」 長村祥知 
 十、『立命館文学』六二四号 「治承・寿永内乱期の在京武士」 長村祥知 
 十一、『軍記と語り物』四十八号「木曽義仲の上京と『源平盛衰記』」 長村祥知 
 十② 『信濃』信濃史学会 六十五・十② 「木曽義仲の発給文書」 長村祥知 
 十三、『史学義仲』 第四、八、九、十、十二号 木曽義仲史学会
 十四、『朝日将軍木曽義仲洛中日記』 高坪守男 オフィス・アングル
 十五、『やさしい木曽義仲法廷日記』 高坪守男 オフィス・アングル
 十六、『旭将軍木曽義仲軍団崩壊』  高坪守男 オフィス・アングル
 十七、『旭将軍木曽義仲その実像と虚像』  高坪守男 オフィス・アングル
 十八、『市河文書』 長野県立歴史館 古文書一覧 
 十九、『名月記研究』九号(頼朝の征夷大将軍任官をめぐって) 櫻井陽子 
 二十、『日本の中世の歴史三』(源平の内乱と公武政権) 川合康 吉川弘文館
 二十一、『源義経』 元木泰雄 吉川弘文館
 二十二、『武力による政治の誕生』 本郷和人 講談社
 二十三、『平安遺文』 東京堂出版
 二十四、『木曽路大紀行』 田中欣①  一草舎出版
 二十五、『訓読・諏訪大明神絵詞』山下正治 立正大学人文科学研究所年報
 二十六、『源頼政と木曽義仲』永井晋 中公新書
 二十七、『源氏命運抄』田屋久男 アルファゼネレーション